2015年12月17日木曜日

『ユダヤ戦記』(ちくま学芸文庫):フラウィウス・ヨセフス

ユダヤ戦記〈1〉 (ちくま学芸文庫)ユダヤ戦記〈1〉 (ちくま学芸文庫)
フラウィウス ヨセフス Flavius Josephus

筑摩書房 2002-02
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【概要】
書名:ユダヤ古代誌
著者:フラウィウス・ヨセフス
訳者:秦 剛平
出版社:筑摩書房(ちくま学芸文庫、全3冊)
頁数:423頁(1巻)、394頁(2巻)、341頁(3巻)
備考:史書

【作者情報】
帝政ローマ時代の著述家、歴史家。紀元37年生まれ。ユダヤ人であったが、ローマ帝国とユダヤ人との間で行われたユダヤ戦争でローマ側に投降し、ローマ軍の一員としてエルサレム陥落に立ち会う。その後、ユダヤ戦争の顛末を描いた『ユダヤ戦記』、ユダヤ人の歴史をまとめた『ユダヤ古代誌』などを執筆し、100年頃にローマで死去したとされる。

【感想】
本書『ユダヤ戦記』は、『ユダヤ古代誌』に先だってヨセフスにより書かれた史書で、作者自身も参加したユダヤ戦争の顛末を描いている。ユダヤ戦争には、第1次ユダヤ戦争(66年-70年)と、バル・コクバの乱とも呼ばれる第2次ユダヤ戦争(132年-135年)があるが、本書によって語られるのは第1次ユダヤ戦争の方である。

ヨセフスは本書を書くにあたり、他の歴史家の記述は正しくなく、自分の記述こそが公平かつ正確であることを強調している。しかし実際には、戦力や戦死者数などには明らかな誇張があるし、腑に落ちない記述もある。ヨセフスの記述がどこまで正しいかは分からないが、ユダヤ人側の将として参加し、その後ローマ軍に投降したヨセフスがローマという異国の中で不利な立場に立たされないように慎重に書いたことは間違いないだろう。

エルサレムやユダヤ地方の美しい描写などもあるが、基本的には戦争の話なので、目をそむけたくなるような残酷な描写が多い。ヨセフスの筆は残虐な行為もオブラートに包むことなく真っ向から描いているのでなおさらだ。また、トゥキュディデスの『歴史』のように人物たちの演説を要所々々に挿入しており、高揚感などを煽るのに効果的に使われていると思う。

底本では7巻構成だが、ちくま学芸文庫では3巻に分かれている。以下では、特に断りのない限り、巻数はちくま学芸文庫を示すことにする。

[第1巻]
1巻は、戦争前のユダヤ人の状況が主に語られている。ヨセフスはユダヤ戦記に関係する出来事を語ると言っているが、実際にはユダヤ人の王国であるアサモナイオス朝の成立(紀元前140年頃)くらいから話を始めており、かなり前口上が長い印象を受ける。

戦争は、アサモナイオス朝の後を継いだヘロデ朝のアグリッパ2世の治世に起こる。アグリッパ2世は一応ユダヤ系の人間なのだが、実際にはローマ人であり、ユダヤ人の政治的な独立は失われていたといっていい。

そういう状況の中で、ユダヤ領のカイサレイアという街でギリシア系住民とユダヤ系住民の諍いが起こる。時のユダヤ総督のフロロスが対応するが、それがギリシア側に有利だったために、ユダヤ人の不満が爆発、各地に飛び火する結果になる。ここで、アグリッパ2世はユダヤ人の叛乱を食い止めようとかなり長く気合の入った演説をするものの、効果はなく、ユダヤ人はゼーロータイ(熱心党)と呼ばれる過激派の意向を受けて、ローマとの戦いに臨むことになってしまう。

ユダヤ人は、緒戦でローマ側のシリア総督ケスティオスを斥け、その後、ヨセポス(作者のヨセフスのこと。文章中では表記が異なる)を将軍としてユダヤの北に位置するガリラヤに赴任させる。そして、ヨセポスはガリラヤの都市を要塞化し、来るべく戦いに備えるのであった。

[2]
ユダヤの叛乱のことがローマ皇帝ネロ(本書ではネロン)の下に届く。事態を重く見たネロは、ウェスパシアノスを叛乱鎮圧のためにユダヤの地へ派遣する。ウェスパシアノスは、自身の息子ティトスと共に軍を集結させ、ヨセポスが要塞化したガリラヤに進軍する。

ウェスパシアノス&ティトスが率いるローマ軍とヨセポスが率いるユダヤ軍との戦いでは、ユダヤ軍も善戦するものの結局はローマ軍が優勢となる。ヨセポスは無駄死によりは投降を選ぶように兵士を説得するが失敗。残された兵士は自害し、ヨセポスはローマに投降する。ヨセポスはウェスパシアノスの前に連れて行かれると、ウェスパシアノスに向かって突然、あたなは将来皇帝になると予言し、そのことがウェスパシアノスに気に入られ、処罰を免れるどころか厚遇されることになる。

こうしてガリラヤを平定したウェスパシアノスはエルサレムに向かって進軍する。一方、ユダヤ人の聖都エルサレムでは、ギスカラのヨアンネス率いる野盗がゼーロータイと共に市民に対して暴虐を行うようになっていた。それに対して大司祭アナノスは市民を立ち上がらせてヨアンネスに対抗する。しかし、ヨアンネスは、ユダヤ系のイドマヤ人に対してアナノスは残忍であると中傷し、アナノス側に攻撃を加えさせ、アナノスを殺してしまう。そしてヨアンネスはエルサレムで独裁者として君臨することになる。

ウェスパシアノスはエルサレム周辺の都市を次々に陥落させ、後はエルサレムを落とすのみとなるのだが、ちょうどその時、ネロ皇帝が殺され、ガルバが皇帝に推挙される。しかし、ガルバは直ぐに部下のオト(本書ではオットー)に殺害され、さらにオットーはウィテッリウス(本書では、ウィテルリオス)の攻撃を受け自害し、ウィテッリウスが皇帝となる。それに腹を立てたウェスパシアノスは部下の兵士にローマ皇帝に推挙されると、エルサレム攻略を取りやめ、ローマの食物庫であるエジプトに向かい、そこを手中に収める。そしてシリア総督のムキアヌスをローマに進軍させる。ムキアヌスはウィテッリウスを破り、ウェスパシアノスはヨセポスの予言通り、名実ともにローマ皇帝となった。

一方、ユダヤの地では、ギオラスの子シモンが軍を組織し村々を荒らしまわっていた。ヨアンネスに反対する側の住人がヨアンネスと対抗するためにシモンの軍をエルサレムに導き入れる。そのため、エルサレムは内乱状態に陥り、さらにヨアンネスからエレアザロスが分派し、三つ巴の戦いが起こるなど混乱を極める。

そこに皇帝ウェスパシアノスからエルサレム攻略を命じられたティトスの軍隊が到着し、エルサレムを包囲する。そこでユダヤの暴徒たちは手を組み、ローマとの戦うことにするのだが、とばっちりを受けるのは市民である。暴徒たちに金品や食糧は強奪され、生活は劣悪に。このときの市民生活の描写は胸が痛くなるほど悲惨であり、戦争で最も被害を受けるのは弱者であるという「普遍的な」ことがここでも起こっている。しかし、そんな市民の生活をよそに戦いは続く。ローマ軍は城壁を破り、エルサレムの内部へと侵攻してくるのであった。

[3]
3巻は半分くらいが解説や年表、索引などに割かれていて、本文としては短い。
エルサレム内部での悲惨な生活は続いている。特に飢餓が極度に達し、自分の子供を食べるマリアのような者が出る始末だった。

ローマ軍がエルサレムの防御の要であるアントニアの塔を陥落させると、残りの暴徒たちは神殿内部に立て篭もり最後の足掻きを見せる。しかし、勝負は既についていた。ローマ軍は神殿内部に入ると、隠れていた暴徒の指導者ヨアンネスとシモンを捕らえる。ついにエルサレムは陥落したのだった。

ここで底本の6巻が終わる。底本の最後の7巻は後日追加されたもので、ユダヤ戦争の後日談のようなものになっていて、ヨアンネスやシモンの最後や、ウェスパシアノスやティトスの凱旋式の様子が描かれる。

そして、マサダの要塞に立て篭もった交戦派ユダヤ人の残党とローマ軍の最後の戦いが語られる。この戦いは、ユダヤ人の集団自殺という痛ましい出来事で幕を閉じ、ユダヤ戦争は完全に終結する。

ユダヤ戦記〈2〉 (ちくま学芸文庫)ユダヤ戦記〈2〉 (ちくま学芸文庫)
フラウィウス ヨセフス Flavius Josephus

筑摩書房 2002-03
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ユダヤ戦記〈3〉 (ちくま学芸文庫)ユダヤ戦記〈3〉 (ちくま学芸文庫)
フラウィウス ヨセフス Flavius Josephus

筑摩書房 2002-04
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2015年11月11日水曜日

『ユダヤ古代誌』(ちくま学芸文庫):フラウィウス・ヨセフス

ユダヤ古代誌〈1〉旧約時代篇(1−4巻) (ちくま学芸文庫)ユダヤ古代誌〈1〉旧約時代篇(1−4巻) (ちくま学芸文庫)
フラウィウス ヨセフス Flavius Josephus

筑摩書房 1999-10
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【概要】
書名:ユダヤ古代誌
著者:フラウィウス・ヨセフス
訳者:秦 剛平
出版社:筑摩書房(ちくま学芸文庫、全6冊)
頁数:446頁(1巻)、351頁(2巻)、400頁(3巻)、413頁(4巻)、368頁(5巻)、451頁(6巻)、
備考:史書

【作者情報】
帝政ローマ時代の著述家、歴史家。紀元37年生まれ。ユダヤ人であったが、ローマ帝国とユダヤ人との間で行われたユダヤ戦争でローマ側に投降し、ローマ軍の一員としてエルサレム陥落に立ち会う。その後、ユダヤ戦争の顛末を描いた『ユダヤ戦記』、ユダヤ人の歴史をまとめた『ユダヤ古代誌』などを執筆し、100年頃にローマで死去したとされる。

【感想】
本書『ユダヤ古代誌』は、神による天地創造からユダヤ戦争の直前までのユダヤ人の歴史をまとめた史書である。ユダヤ人の歴史を描いた書物といえば、いわゆる『旧約聖書』が存在するが、『旧約聖書』は単なる歴史書ではないため、読み解くのは容易ではない。
例えば、創世記の冒頭から既に矛盾がある。天地創造の六日目で草木を創っておきながら、七日目の後で地にはまだ木も草もないと語られたり、神の似姿の男女を創造した後で、アダムの肋骨からイブを創る記述があったりする。これは、旧約聖書を複数の資料から編纂したために生じたものだとされている。また、出エジプト記までは、まだ物語性も高く比較的読み易いのだが、レビ記に入ると、律法(生活に関する規定)が大半を占めるため、読むが辛くなってくる。
それに対して『ユダヤ古代誌』は、『旧約聖書』を主に利用しつつも、複雑なユダヤ人の歴史を他の民族にも分かりやすく示すことを目的としているため、歴史の流れを理解しやすくなっている。もちろんその反面、様々な要素が抜け落ちることになるわけだが、『旧約聖書』にはない要素も加わっているので、一長一短である。
ヨセフスは、基本的には、淡々と「事実」を語るのだが、時々「主張」を入れてくる。特に何度も強調されるのは、権力が人を堕落させるということである。ありふれた主張ではあるが、人が未だに陥る業なので、今一度確認しておくことも無駄ではないだろう。

[第1巻]
第1巻は、天地創造からモーセの死まで。
天地創造に始まり、アダムとイブの楽園追放、カインによる最初の殺人、大洪水とノアの箱舟、バベルの塔の崩壊など有名な神話が続く。その後、アブラハムの物語、イサクとヤコブ物語、モーセの物語と徐々に歴史的な色合いが出てくるが、基本的には、第1巻で描かれているのは、神話の時代である。
洪水を生き残ったノアの子孫であるアブラハムの物語で極めて重要なことが語られる。つまり、アブラハムは神からカナンの地(パレスチナ)が与えられるのだ。これは今なお続く中東問題の根の一つになっている。ただし、アブラハム自身は敬虔で賢明な人物である。
アブラハムの子供と孫にあたるイサクとヤコブの物語は、家族愛(同族愛)に関する一種の寓話のような物語で、心を打つものがある。「ヤコブの梯子」として有名な逸話も含まれている。このヤコブの子孫がイスラエルの12部族を形成している。ちなみに、イサクの異母兄弟にあたるイシュマエルを祖とするイシュマエル人がアラブ人になったとされている。
モーセの物語は、ユダヤ人の歴史の起点だと思う。エジプトで隷属的な地位にあったユダヤ人をエジプトから脱出させたモーセに従い、そのモーセの神と契約を結んだ者こそがユダヤ人だからである。奴隷が大国エジプトから、しかも集団で脱出するだけでも奇跡的なのだが、それをドラマチックなエピソードで彩っているので、物語としても非常に面白いし、ファラオの強情さや直ぐ弱気になるユダヤ人などに人間の普遍的な姿を見ることができる。
エジプトを脱出したモーセは、シナイ山で神から十戒を受け、その十戒を記した石版を入れる契約の箱を作る。その後、モーセは内部の不和を収めつつ、カナン人との戦いに明け暮れることになる。また、第1巻には、モーセの行動だけでなく、律法の一部が比較的多めに紹介されている。

[第2巻]
第2巻は、ヨシュアによるカナン征服からソロモン王の即位まで。
モーセの後を継いだヨシュアは、カナン人との戦いを続ける。ヨシュアは、モーセからカナン人を殲滅するように指示されており、実際に敵の都市を落とすと、女、子供関係なく虐殺する。今後、敵を殲滅することが古代ユダヤ人にとっての「正しい戦争」となるのだ。
殲滅戦では、自分たちの被害も大きくなるので効率的だとは思えないが、それでもヨシュアが率いるユダヤ人は強く、カナンの地を概ね制圧してしまう。ヨシュアは、制圧した土地をイスラエルの12部族に分配する。ちなみに、イスラエルの部族には、土地を分配された12部族の他に、土地を持たない祭司階級を構成するレビ族が存在する(レビ族を12部族に入れることもある)。
ヨシュアの死後は、部族ごとに士師と呼ばれる指導者に従う士師の時代となる。士師の時代のユダヤ人は、各地でカナン人などと戦いながら領土を広げていく。ただし、カナン人を殲滅するのではなく、カナン人と共存するという合理的な選択も多くみられるが、神はこれを善しとはしない。
士師には、女予言者デボラなど興味深い人物もいるが、全体としては小粒な印象を受ける。その中では、愛するデリラに騙されて力の源である髪を切られて敵に捕まってしまう怪力サムソンの有名なエピソードが目を引く。
最後の士師サムエルは例外的に偉大である。幼い頃から敬虔で神に愛されたサムエルは、イスラエルの歴史の中でも最も偉大な指導者の一人だろう。ペリシテ人に奪われていた領土を取り返しただけでなく、それ以降ペリシテ人の侵攻を寄せ付けず、また、肉欲や権力に溺れることもなく、誠実に種々の預言でイスラエルの民を導く、まさに理想的な指導者だった。
そのサムエルも歳には勝てず、年老いてからは息子たちに頼るようになるが、この息子たちは出来が悪く、民から見放されてしまう。そして民はイスラエルも他の国と同じように王を擁立するようにサムエルに頼むのだった。サムエルは、民の上に神とは別の「王」を据えることに反対するが、民は納得しない。そこでサムエルは仕方なく、預言に従ってサウルを王に選ぶ。
こうしてイスラエル王国の最初の王となったサウルは、当初はサムエルと協力しながら王国を良く導くが、「アマレク人を殲滅せよ」という神の命令に背いたことで、神とサムエルに見放されてしまう。
そこでサムエルは、次の王となるべきダビデを見出す。ダビデは非常に美しく、賢くそして勇気もある。ペリシテ人の最強の戦士である巨人ゴリアテを投石で仕留めるなど、武勇を重ねると、サウルからも寵愛されることになる。しかし、ダビデの民からの人気が高まるにつて、サウルはダビデに嫉妬するようになる。
サウルとダビデの確執と戦いは、王者の風格と威厳を持つダビデがサウルを(少なくとも精神的には)終始圧倒する。そして、サウルがペリシテ人との戦いで戦死すると、サウルとは血の繋がりのないダビデがユダで王位に就き、その後、イスラエル全体の王となる。
ダビデは、美しい人妻バテシバの夫ウリヤを危険な戦地へ送って殺してからバテシバを自分の妻に迎えるという非道な行いや、息子のアブサロムの反乱でアブサロムを意に反して死なせてしまうなどするが、概ね立派に王国を治めたといえるだろう。
ダビデの死後、ダビデとバテシバの子ソロモンが王国を継ぐことになる。

[第3巻]
第3巻は、ソロモンの時代からアレクサンドロス大王の時代まで。
ソロモンはダビデ以上に優秀で公平な王として描かれる。実際、ソロモンは、ダビデが熱望したが神から血に塗られ過ぎているという理由で拒絶された神殿の建造などの大規模な公共事業などを行い、イスラエル王国の発展に努める。そしてソロモン王の下で、スラエル王国は最盛期を迎えるのだった。
ソロモンの死後、息子のレハブアムが王国を継いだが、不用意な言葉により臣民の反感を買ってしまい、イスラエルの12部族のうち10部族が離反してしまう。離反した側の10部族は、北側にイスラエル王国を建国し、レハブアムは、自分の下に残ったユダ族とベニヤミン族を従え、南側にユダ王国を建国する。
イスラエル王国とユダ王国の歴史は、おおよそ同年代の事件が語られるように交互に描かれ、さらには両王国で同時期に同名異人が王になったりするなど、かなり煩雑であるが、フラウィウスの筆は、概ねダビデの血を引くユダ王国に甘く、ダビデの血を引かないイスラエル王国には厳しい。
イスラエル王国は、ユダ王国よりも国力があったようだが、クーデターなどにより王朝が頻繁に変わり力を失っていき、最終的にはアッシリア(新アッシリア王国)に滅ぼされてしまう。その際、10部族はアッシリア本国に連れ去られ、消息を絶つ。この10部族がいわゆる「イスラエルの失われた10部族」である。
ユダ王国は、イスラエル王国とは異なり、ダビデの血を引く一族が王位を引き継いでいく。それらの王の多くがイスラエルの王よりも肯定的に描かれており、ユダ王国が正統な王国であることが仄めかされている。しかし、そんなユダ王国も、滅亡はかろうじて免れたものの、アッシリアの完全な属国となってしまう。その後、宗主国がアッシリアからエジプト、そしてバビロニア(新バビロニア)へと移る。そしてバビロニアに反旗を翻すものの失敗、ユダ王国の首都エルサレムとその神殿は破壊され、さらに王や貴族階級の人々はバビロニア本国に捕囚されてしまう(バビロン捕囚)。これにより、ユダヤ人の独立国は失われてしまう。
バビロニアが新興国ペルシアのキュロス大王に滅ぼされると、バビロニアに捕囚されていたユダヤ人は解放され、エルサレムに戻り、神殿を再建する。しかし、独立は叶わず、ペルシアの次は、アレクサンドロス大王が率いるマケドニアに支配される。
本書では、この大きな歴史の他に、捕囚されたユダヤ人の一人で賢明さによりバビロニアで重用されたダニエルの物語や、薄幸なユダヤの少女からペルシアの王妃になるエステルの物語など、面白い歴史物語が収録されている。特にヨセフスがダニエルを非常に高く評価している点は注目に値する。

[第4巻]
第4巻は、主にアサモナイオス朝(ハスモン朝)について描かれるが、先ずは、エジプトのアレクサンドリアにおける七十人訳聖書成立の過程が説明される。出来上がった翻訳は今後一字一句変更しないことが取り決められるなど、普通の書物の翻訳と、聖典の翻訳とは全く別物である。なお、七十人訳聖書は、簡単に言えば、旧約聖書のギリシャ語訳のことである(正確に言えば、少し違う)。
さてアレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争と呼ばれる後継者争いが勃発し、アレクサンドロス大王の膨大な領土は分割される。聖地エルサレム周辺に住むユダヤ人は、当初プトレマイオス朝エジプトの支配下に入るが、その後、セレウコス朝シリアに編入される。
そしてシリアがユダヤの律法を蔑ろにする行為を取ると、ユダヤ人たちは、不満を爆発させ、司祭のマタティアスを指導者としたアサモナイオス一族が中心となってシリアに反乱を起こす。マタティアスは比較的早く戦死してしまうが、息子たちは非常に優秀であった。先ず、マタティアスの後を継いだのは、マカバイと呼ばれたユダ(ユダ・マカベウス)で、この反乱は彼の名をとってマッカバイオス戦争と呼ばれる。
マッカバイオス戦争では、ユダが倒れると、その兄弟のヨナタンが後を継ぎ、ヨナタンが倒れると、その兄弟のシモンが後を継いだ。そしてシモンの時代に、遂にエルサレムからシリア軍を追い出し、ユダヤ人は再び独立を手に入れる。これがアサモナイオス朝である。
アサモナイオス朝は、自国の後継者争いだけでなく、隣国であるシリアやエジプト、そして地中海世界で存在感を増してきたローマなどとの駆け引きに明け暮れるなど、平穏とはいかないが、それでも強かに100年ほど続く。アサモナイオス朝の歴史を総括すれば、愚かな行為もあるが、強国に囲まれた中で上手く立ち回ったと思う。
アサモナイオス朝は、一旦はローマのポンペイウス(カエサルとの第一回三頭政治で有名なポンペイウス)によって占領されてしまうのだが、その後も、ローマの意向とユダヤ人側の駆け引きなどにより細々と続く。
しかし、結局、ローマの後ろ盾を得たヘロデがアサモナイオス朝を滅ぼし、自らユダヤの王となる。ヘロデは、血筋的にはユダヤ系ではないのだが、アサモナイオス朝の最後から2番目の王の孫娘を娶り、その際に、割礼を受けユダヤ人となった人物である。

[第5巻]
第5巻は、全てヘロデ大王の治世に当てられている。
アサモナイオス朝を滅ぼしたヘロデ大王は、元々アントニウス(第二回三頭政治で有名なアントニウス)の援助を受けていたが、アントニウスがオクタウィアヌス(アウグストゥス)に敗れると、直ぐにオクタウィアヌスに取り入って、権力の維持に成功する。悪く言えば、ローマの犬なわけだが、ヘロデは、そうしなければ生き残れないことを知っていたし、状況を適確につかみ、(権力を維持および拡大するための)最善の手を打つ能力があったといえるだろう。
ヘロデは、アサモナイオス朝の王族の生き残りや反抗的な司祭を処刑したり、民に重税を課したりなど独裁を敷く一方で、神殿を建て直したり、港や要塞などを建造したりするなどの公共事業も行っている。
ヨセフスは、基本的にヘロデを権力に溺れた悪人のように描くが、古代イスラエルに最大の繁栄をもたらせたことは認めざるを得ない。ただし、この繁栄は対外的には繁栄に見えたということかもしれない。例えば、立て直した神殿は、ローマの人々にも評判になるほど豪華絢爛であったが、イスラエルに住むユダヤ人にとっては、むしろ搾取された証として映った可能性が高い。
晩年のヘロデは、多くの独裁者がそうであったように疑心暗鬼を募らせ、跡継ぎとして考えていた自分の息子たちさえも処刑したり、別の息子の暗躍を許したりするようになってしまい、最後は、原因不明の病気に罹り、苦しみの中で死んでいった。
凄まじいのは、その死に際である。自分が死ねばユダヤ人が喜ぶことを知っていたヘロデは、大勢のユダヤ人を競技場に閉じ込め、家来たちに自分が死んだ後にそのユダヤ人を全て殺すように指示したのだ。そうすれば、ヘロデの葬儀は、殺されたユダヤ人の家族が悲しむ中で執り行われるというのである。極悪非道とはこのことだ。しかし、これは実行されず、ヘロデの妹のサロメなどによって、閉じ込められていたユダヤ人は解放される。

[第6巻]
第6巻は、ヘロデ大王の死後からユダヤ戦争の直前まで。また、「ヨセフスのキリスト証言」と呼ばれる、聖書を除く古代の書物におけるイエス・キリストについての唯一の記録が存在するが、これが非常に短く、『ユダヤ古代誌』の中では特に重要なエピソードとして扱われてはいない。
ヘロデ大王の死後、領土はヘロデ大王の遺言に従って3人の息子ヘロデ・アルケラオス、ヘロデ・フィリッポス、ヘロデ・アンティパスに分割されることになったが、ローマ帝国は、息子たちが王を名乗ることを許さず、領主という低い地位での統治となった。なお、ローマ帝国に没収された領地などもある。
後を継いだ3人の息子のうちアルケラオスとアンティパスは失政により追放され、その領土はローマに編入されてしまう。フィリッポスは死去するまで領土を治めたが、領土を自分の息子に継がせることはできず、時のローマ皇帝ガイウス(カリギュラ)と親しかったヘロデ大王の孫のアグリッパ(ヘロデに処刑されたアリストブロスの子)が領土を引き継ぐこととなる。アグリッパには、皇帝ガイウスによりアンティパスの元領土が加えられ、そしてガイウスの死後、皇帝クラウディウスによりアルケラオスの元領土も加えられ、王の地位を得た。
また、本巻では、ユダヤの歴史とは直接関係のないガイウス暗殺の一部始終などが詳細に書かれているなど、ユダヤが完全にローマの一部に組み込まれたことをうかがわせる。
アグリッパの死後、その領土はローマに没収され、ユダヤ人はローマから派遣されたユダヤ総督の支配下での生活を余儀なくされる。
一応、その後、アグリッパの息子アグリッパ二世の統治が認められるようになるのだが、ほとんど意味あるものではない。このような総督の支配下でユダヤ人たちは不満を募らせていき、対ローマ戦争であるユダヤ戦争へと突入するのだが、その直前で本書は幕を閉じる。

ユダヤ古代誌〈2〉旧約時代篇(5−7巻) (ちくま学芸文庫)ユダヤ古代誌〈2〉旧約時代篇(5−7巻) (ちくま学芸文庫)
フラウィウス ヨセフス Flavius Josephus

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ユダヤ古代誌〈3〉旧約時代篇(8−11巻) (ちくま学芸文庫)ユダヤ古代誌〈3〉旧約時代篇(8−11巻) (ちくま学芸文庫)
フラウィウス ヨセフス Flavius Josephus

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ユダヤ古代誌〈4〉新約時代篇(12−14巻) (ちくま学芸文庫)ユダヤ古代誌〈4〉新約時代篇(12−14巻) (ちくま学芸文庫)
フラウィウス ヨセフス Flavius Josephus

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ユダヤ古代誌〈5〉新約時代篇(15−17巻) (ちくま学芸文庫)ユダヤ古代誌〈5〉新約時代篇(15−17巻) (ちくま学芸文庫)
フラウィウス ヨセフス Flavius Josephus

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ユダヤ古代誌〈6〉新約時代篇(18−20巻) (ちくま学芸文庫)ユダヤ古代誌〈6〉新約時代篇(18−20巻) (ちくま学芸文庫)
フラウィウス ヨセフス Flavius Josephus

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2015年8月28日金曜日

『動きの悪魔』(国書刊行会):ステファン・グラビンスキ

動きの悪魔動きの悪魔
ステファン グラビンスキ Stefan Grabi´nski

国書刊行会 2015-07-27
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【概要】
書名:動きの悪魔
著者:ステファン・グラビンスキ
訳者:芝田文乃
出版社:国書刊行会
頁数:324
備考:短篇小説集

【作者情報】
1887年にオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィア・ロドメリア王国(現在のポーランド+ウクライナ周辺)で生まれ、1936年に死去。ポーランド文学史上ほぼ唯一の恐怖小説ジャンルの古典的作家で、「ポーランドのポー」「ポーランドのラヴクラフト」などと呼ばれている。

【感想】(ネタバレあり)
ジャンルで言えば、幻想怪奇小説系の短篇集だが、その全てに鉄道が絡んでくるところが目新しい。それでいて単調な構成とはならず、サイコホラー的な作品から、SF風味を効かせた物語や、ユーモアを感じさせるものまで幅広いタイプの小説が楽しめる。

本書の作品を通して、目に付くのは、鉄道と人間の関係。鉄道は、当然ながら人間が作り、そして運営、管理していくものであるが、本書の作品では、その立場が逆転していることが多い。

例えば、普段は内気で消極的だが列車に乗っているときだけ性格が変わったように積極的になる男の顛末を描いた「車室にて」では、一見すると、男がファム・ファタール的な女に誑かされているのだが、列車を下りた後の男の我に返ったような行動から推察するに、男を操っていたのは女でなく列車の方だろう。「汚れ男」では、鉄道を運行は、占星術における天体運行のように、人の運命を支配する存在にまで昇華されているように思えるし、本作に現れる謎の汚れ男は、予め決められた鉄道の運行を守る守護者なのかもしれない。

本書の各作品では、鉄道は多かれ少なかれ人々の運命や行動に影響を与えるが、影響を与え方には、大きく分けて二種類あると思う。一つは、「奇妙な駅(未来の幻想)」や「待避線」のように鉄道とは別の大いなる存在が鉄道を使って人々に影響を与える場合、もう一つは、上述の「汚れ男」や、「偽りの警報」、「放浪列車(鉄道の伝説)」のように鉄道そのものが運命を司っている場合だ。

個人的に面白いと思うのは、後者の方だが、それは完全に好みの問題だと思う。好みと言えば、不幸になる主人公が多い中で、愛情を注いで整備した鉄道に恩返しされる「音無しの空間(鉄道のバラッド)」と、ユーモレスク(ユーモア小説)といいつつラストがあまりに切ない「永遠の乗客( ユーモレスク )」が特によかった。

鉄道と人間の関係でいえば、最後に所収された「トンネルのもぐらの寓話」は異色。ここでは、鉄道は、もはや人間の運命を左右する存在ではなく、物語の背景に甘んじている。けれども、本作の最後で主人公のフロレクが鉄道会社の人間から逃れるとき、読んでいる私自身が私を支配する鉄道から逃れて自由になった気がした。言いかえれば、本書の魔力から解放されたのだ。そういう意味で、最後の作品として、これ以外にないくらい相応しいと思う。



2015年8月17日月曜日

『氷』(ちくま文庫):アンナ・カヴァン

氷 (ちくま文庫)氷 (ちくま文庫)
アンナ カヴァン Anna Kavan

筑摩書房 2015-03-10
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【概要】
書名:氷
著者:アンナ・カヴァン
訳者:山田和子
出版社:筑摩書房(ちくま文庫)
頁数:274頁
備考:長編小説

【作者情報】
1901年生まれ、1968年歿。ヘレン・ファーガソンの筆名で何篇か小説を発表した後、1940年の『アサイラム・ピース』からアンナ・カヴァンを名乗る。ヘロインの常習として知られており、心臓発作で亡くなったときも、すぐ傍にヘロイン用の注射器が置かれていたらしい。

【感想】(ネタバレあり)
人は不調和の下で生きている。理想の自分と実存する自分が一致することはなく、社会から強制されるルールを全て是認できるわけもない。自分が望む自由な生と、自身の能力不足や社会からの強制によって規定される実際の生との不調和に葛藤したことのない人間などいるのだろうか。

この不調和において自由な生は常に妥協を強いられる。努力や運などによって、実際の生を自由な生の方に近づけることはある程度可能かもしれないが、同じ地平にまで引き上げることはできないからだ。この妥協を要領よくこなす人間は「大人」と称賛され、そうでない人間は「子供」と蔑まれることだろう。なぜ「普通」になれないのかと責められるだろう。

アンナ・カヴァンの『氷』は、氷によって人類の生息地が奪われつつある世界で、主人公の男が一人の少女を追い求める物語である。

母からの虐待により隷属的な性格となった少女の謎の逃避行と、その少女を追いかけ保護しようとする主人公の男、隷属的な性格を利用して少女を娼婦のように扱う暴力的な長官というのが本作の最も表層的な図式である。しかし、『氷』はこのような単純な物語ではない。本作は幾層にも折り重なった欺瞞で構成されている。

冒頭、車中で男が幻視した少女の姿は、性的に未熟な裸体のため、まさに少女というべき存在ではあるが、実際には、少女は二十一歳で、既に結婚して夫と暮らしている。この少女とは言えない年齢の既婚女性を「少女」と呼ぶのは、主人公の男である。これは――実際の少女がどうであれ(夫が告白するように普通の行動がとれない「子供」であるかもしれないが)――少女が保護すべき弱い存在であることを望む男の心理を表している。少女が弱い存在であれば、男は、弱い存在を保護する自分というアイデンティティを確立できるからだ。

『私にとって、現実は常にその実体を測り知ることのできない存在だった(19頁)』


男は、現実を受け入れるための基礎として、弱者を保護する自分というアイデンティティを確立している。端的に言えば、男はマッチョである。

しかし、男の少女への執着心は非常に強く、とてもマチズモだけでは説明しきれない。というより、マチズモは、男が自己正当化のために作り出した仮面にすぎない。男がマチズモの下に隠すもう一つの顔は、サディストの顔である。一見すると、暴力的な存在はもう一人の重要人物である長官の方にみえるが、実際には、男がいくども見る少女に対する妄想的な幻では、少女に対する残虐な行為が何度も行われる。男は、自身の暴力性を自覚しているのだが、決して容認してはいない。

『苦悶する少女を見ていることで、説明のしようのない歓びを感じている。この冷酷さは、私自身、是認できないものだが、それでも、それは厳然としてあった(21頁)』

男と長官は互いに敵対しているように見えるが、それはうわべだけのことであり、男は何度も長官に対して親近感や一体感を覚える。長官は、少女を「保護」するが、「保護」することを美化してはいない。男の長官に対する感情は、欲望の解放に対する憧憬である。長官は、マチズモの仮面を脱ぎ捨てた男の理想なのだ。

しかし、男の少女に対する狂気にも似た執着は昔からあったわけではない。

『あの少女に会いにいくという抑えがたい思いは自分でも理解できなかった。異国にいる間中、彼女のことが私の意識から離れることはひと時たりとなかったが、かと言って、帰国の理由が彼女だというわけではなかった。(中略)だが、この国に着いた途端、彼女は強迫観念となり、私は彼女のことしか考えられなくなった(18-19頁)』


男が少女の住む国に来る前に何をやっていたのかは、明らかにされていないのだが、熱帯に棲むキツネザルの一種であるインドリに強い関心があったことが繰り返し語られる。男が一旦少女を諦めたとき、今後はインドリの研究に身を捧げようと思うくらい、インドリは男には重要な存在である。つまり、男にとってインドリは、少女と天秤に掛けられる唯一の存在なのだ。

インドリは、本作の中では、人生における平和の象徴として語られ、穏和、知的、神秘的、陽気など、肯定的なものを体現する。男は、インドリについて思いを馳せるとき、暴力的な自分から解放されている。しかし、平和の象徴であるインドリも少女には、気も狂ってしまうほど嫌な存在として描かれるのだ。

一方、本作のタイトルにもなっている世界を覆い尽くさんとする氷は、暴力や残忍さなど否定的なものを体現している。しかし、氷は不思議なほど少女に影響を与えない。それどころか、氷が少女を象徴していると思える箇所も少なくない。

まとめると、本作の構成は以下のようになっていると思う。

男は、少女の国に帰国する前、インドリの住む温暖な国で平和に暮らしていたが、サディストとしての性的欲求が意識から離れたことはなかった。それが氷に支配されつつある少女の国に帰国したとき、サディストとしての性的欲求が膨れ上がり、少女に執着するようになる。インドリに象徴される平和な顔は少女を保護するというマチズモの仮面として受け継がれ、氷に象徴される暴力的な顔を覆い隠している。

男は、少女を保護するが、少女が世界を受け入れているかのような言動を取ると、今度は少女を見捨て、インドリを選ぶ。しかし、世界が氷(=暴力的な生)で覆われようとしている今、インドリ(=平和な生)を選ぶことはできない。もはやインドリの世界は、空想の中だけしか存在しない。

結局、男は少女を再び追いかけ、少女と再会を果たす。そして少女からこのように告白される。

『あなたに会う時はいつだってわかっている。あなたが私にひどいことをするってことが……すぐにでなくとも、一時間か二時間たてば、でなければ翌日には……必ずそう……あなたはいつだってそう………(250-251頁)』
『本当よ、本当だってことだけは確かよ、あなたが信じようと、信じまいと! なぜだかわからない……私にはいつだって、あなたがあんなに恐ろしかったのに……わかっているのは、ただ、私がずっと待っていたということだけ……ずっと、あなたが帰ってくるかどうか考えつづけていた(251頁)』


少女とて暴力を肯定しているわけではないが、欺瞞に満ちた存在しない平和よりもはるかにましである。

男は、少女の告白を受けて、自身の暴力性をようやく自覚し、恥じ入る。そして、少女に対して二度と暴力を振るわないことを誓う。この場面は、清々しく、感動的である(感情や情熱を伴う偽らざる赤裸々な告白が人の心を動かす瞬間は、いつでも感動的なのだ)。

最後、男は少女と二人で車に乗り、全速力で氷から逃げていく。少女はほほえみ、男に身を寄せる。残り時間は少ないが、二人は幸福である。

けれども、私には二人を祝福しながら見送ることができない。本作の最後の文章はこうだ。

『ポケットの拳銃の重さが心強い安心感を与えてくれる(257頁)』


なぜ拳銃の重さが安心感を与えるのか。それは、暴力をいつでも振ることができるという安心感ではないだろうか。確か少女は言っていたはずだ、『すぐにでなくとも、一時間か二時間たてば、でなければ翌日には……必ずそう……あなたはいつだってそう』と。

2015年8月14日金曜日

『ペルシャの鏡』(工作舎):トーマス・パヴェル


ペルシャの鏡 (プラネタリー・クラシクス)ペルシャの鏡 (プラネタリー・クラシクス)
トーマス パヴェル Thomas Pavel

工作舎 1993-03
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【概要】
書名:ペルシャの鏡
著者:トーマス・パヴェル
訳者:江口修
出版社:工作舎(プラネタリー・クラシクス)
頁数:163頁
備考:連作短編小説集

【作者情報】
1941年のルーマニアに生まれ、その後、カナダに移住。

【感想】
作家や作品の雰囲気を別の作家の名前を使って譬えるのは便利ではあるけれど、その一方で、その作家や作品を型にはめて解釈することにもなってしまう。そのため、このような表現はなるべく避けるべきだとは思うのだが、ある種の作品に出会ったとき、避けがたい魅力を放つ表現が二つある。一つは「カフカ的」、もう一つは「ボルヘス風」。

トーマス・パヴェルの『ペルシャの鏡』は、いかにもボルヘス風な小説である。つまり、形而上学的な晦渋さと、探偵小説的な通俗性とが融合した遊戯的な小説ということだ。

『ペルシャの鏡』は、ライプニッツの「可能世界」をテーマにした五篇の連作短篇小説で構成され、各短篇では、ルイという学生が様々な「可能世界」を垣間見る。

最初の四篇はルイが読んだ書物について語られ、最後の一篇はルイが書いた未完の小説について語られる。ルイが読み書きした書物や小説は全て架空のものであり、プラトンの『饗宴』のパロディや、スーダンを舞台にした英雄叙事詩風な韻文悲劇などその内容は多彩だが、全て結末が固定されておらず、様々な解釈が可能で、その様々な解釈のそれぞれが「可能世界」を表すという構成だ。そして、架空の本がまた「可能世界」についての物語という入れ子構造を持っている。

ライプニッツの「可能世界」の考え方によれば、この現実世界は、様々な可能世界のうち神が選び給うた最善の世界である。しかし、本作における「現実世界」は、「最善の世界」という条件が外され、対等な「可能世界」の一つでしかない。

この重要な変更が本作を「哲学的な物語」ではなく「小説」にしていると思う。つまり、「可能世界」という形而上学的な概念を学術的に吟味しているのではなく、それを遊戯的に扱っているのだ。そして、この遊戯性が本書を魅力的なものにしている。