2016年9月13日火曜日

『この私、クラウディウス』:ロバート・グレーヴズ(みすず書房)

この私、クラウディウスこの私、クラウディウス
ロバート グレーヴズ Robert Von Ranke Graves

みすず書房 2001-03-15
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【概要】
書名:この私、クラウディウス
著者:ロバート・グレーヴズ
訳者:多田智満子、赤井敏夫
出版社:みすず書房
頁数:480頁
備考:長編小説

【作者情報】
1895年生まれ、1985没。イギリスの詩人、小説家。『アラビアのロレンス』(トーマス・エドワード・ロレンスの評伝)の作者としても有名。

【感想】
養父カエサルの後を継いでローマの初代皇帝となったアウグストゥスは、その後、5代皇帝ネロまで続くユリウス・クラウディウス朝の礎を築く。ユリウス・クラウディウス朝の諸皇帝の血脈は、家系図を書くだけでも一苦労するほど複雑であって、それは、ユリウス・クラウディウス朝内での権力闘争の激しさを物語っている。

人は権力闘争の物語が好きだ。様々な人物が入り乱れて、欲望をぶつけ合い、憎み、策を練り、共謀し、裏切り、戦い、つかぬ間の休息に心を休め、友情や愛情を育み、そして殺し、殺される。そこには善人もいれば、悪人もいる。聡明な人間もいれば、愚かな人間もいる。幸運に笑う者もいるし、不運に泣く者もいる。しかし、闘争の中に名を残す者は、不思議とみな魅力的だ。

本書『この私、クラウディウス』は、クラウディウスの自伝という体裁であるが、実際にはユリウス・クラウディウス朝の権力闘争などを描いた大河ドラマである。面白くないわけがない。

クラウディウスは、4代皇帝となる人物だが、その人生は波乱万丈。アウグストゥスの2番目の妻リウィアの連れ子ドルススの次男として、アウグストゥス治世下の紀元前10年に生まれる。生まれつき障碍を持ち、どもり症であったために、皇帝の一族であるのに関わらず、公務にはほとんど就かず、歴史家として著述活動などを行っていた。権力とは無縁な生活であったが、それが却って功を奏し、2代皇帝ティベリウスや3代皇帝カリグラによる粛清の波に飲まれず、カリグラ暗殺後に4代皇帝に担がれる。

つまり、クラウディウスはアウグストゥスからカリグラまでの治世を生き抜き、その時代を皇帝家内部から(歴史家としての視線で)見ていた稀有な人物ということになる。ユリウス・クラウディウス朝を描く大河ドラマの語り手として、これ以上の人物は望めない。クラウディウスに目をつけたのは慧眼だったと思う。

作者のグレーヴズは、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』などの一次資料を読み込み、史実にかなり忠実に作っているが、退屈な事実の羅列に陥ることなく、それぞれの人物に彩を与え、資料にない隙間を埋め、歴史小説としてしっかりと仕上げている。また、本書では、クラウディウスが予言に従い、約2千年後の人々(要するに現代読者)に向けて書いたという設定を導入することで、クラウディウスの自伝という体裁にも関わらず、我々のような遠い読者に対しても配慮されているのである。まさに至れり尽くせりだ。

注目点は、色々あるが、特にアウグストゥスの2番目の妻リウィアが目を引く。本書においてリウィアは、暴君カリグラを超えた最凶の人物であり、そして最高の政治家でもある。リウィアの前には、アウグストゥスでさえ形無しで、全てを支配するのはリウィアである。ユリウス・クラウディウス朝の繁栄はひとえにリウィアのお蔭であり、皇帝なんてお飾りである。逆らうものは当然消されるが、逆らわなくても邪魔なら消される。クラウディウスだって消されても不思議ではなかったがなんとか生き残る。

この強烈な個性は、本書で最も輝く星だと思う。しかし、残念なことに途中で死んでしまう(史実なので仕方ない)。その後もティベリウスやカリグラなどがクラウディウスを苦しめ、息の付けない展開が続くが、リウィアの生前に比べると勢いはやや劣る。

クラウディウスが皇帝になったところで本書は幕を閉じる。皇帝になった後のクラウディウスを描いた続編もあるらしいのだけど、邦訳はない。クラウディウスの4番目の妻であり、ネロの母でもあるアグリッピナがどのように描かれているか興味があるので、誰か訳してくれないだろうか。



2016年8月18日木曜日

『原爆詩集』:峠三吉(岩波文庫)

原爆詩集 (岩波文庫)原爆詩集 (岩波文庫)
峠 三吉

岩波書店 2016-07-16
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【概要】
書名:原爆詩集
著者:峠三吉
出版社:岩波書店(岩波文庫)
頁数:160頁
備考:詩集

【作者情報】
1917年生まれ、1953年没の詩人。1945年に広島市で被爆。

【感想】
広島の平和記念公園に建立されている多くの慰霊碑や記念碑の中に、峠三吉詩碑がある。「ちちをかえせ ははをかえせ」で始まり、「くずれぬへいわを へいわをかえせ」で終わる碑文が彫られた小さな記念碑だ。この碑文は、峠三吉の『原爆詩集』に含まれる「序」と題された詩であり、文字通り、詩集の序文的な役割を果たしている。

「序」は、ひらがなだけで書かれているため、文章が間延びしていて、幼く、そして弱々しく見える。しかし、詠まれている内容は、これ以上ないほど明確に反戦、反核であって、力強い。この形式と内容の齟齬が、弱い人間の意を決した覚悟を表していて、単純な反核メッセージでは伝えきれない、思いを伝えている。

峠三吉の名前を知ったのは、峠三吉詩碑を偶然見つけて、その碑文を読んだときだった。碑文には心打たれたものの、イデオロギー的な臭いを感じて、素直にそれを受け止めることができなかった。反戦、反核は基本的に正しいと思ってはいる。しかし、特定のイデオロギーを追従、賛美した文学や、逆に特定のイデオロギーを痛罵した文学には、そのイデオロギーの内容に依らず、興味が持てない。

今もその考えは変わっていないけれど、昨今の日本や世界の政治状況を鑑みると、平和を希求する声に今一度深く耳を傾けるのも必要かと思い、文庫化されたのを機に読んでみた。文学としてというより、思想として。

でも、読んでみて分かったことは、そんなイデオロギー的な詩集ではないということだ。いや、正確には、反核、反戦の詩集であることは疑いの余地はなく、イデオロギー的ではないとは言えない。これは、イデオロギーを超えていると言うべきだろう。

人間にとって原爆とは何か、戦争とは何か、平和とか何か、人間とは何かを自ら問い直し、問い直し、問い直し、そして読み手にも幾度も問い直させる、血で綴られた詩集だ。

何度も問い直すという性質上、『原爆詩集』は、反復的であり、多面的である。上述した「序」に続く「八月六日」と題された詩では、投下直後の広島市が客観的に描かれる。
渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルディングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてボロ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿を踏み
焼け焦げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列
次の「死」では、一転して主観的な立場で投下直後を描写する(「!」で始まる)。

泣き叫ぶ耳の奥の声
音もなく膨ふくれあがり
とびかかってきた
さらにその後の「炎」では、原爆の炎に着目して投下直後を再度描写する。
黒い あかい 蒼い炎は
煌火の粉を吹き散らしながら
いまや全市のうえに
立ちあがった。
もちろん、投下直後の描写だけではない。「倉庫の記録」では、投下当日から八日めまでの倉庫の様子が散文体で描かれている。
五日め
手をやるだけでぬけ落ちる髪。化膿部に蛆がかたまり、掘るとぼろぼろ落ち、床に散ってまた膿に這いよる。
時には、数年後のことを語る。
お婆ちゃんは
おまつりみたいな平和祭になんかゆくものかと
いまもおまえのことを待ち
おじいさまは
むくげの木蔭に
こっそりおまえの古靴をかくしている
(墓標)
むせぶようにたちこめた膿のにおいのなかで
憎むこと 怒ることをも奪われはてた あなたの
にんげんにおくった 最後の微笑

そのしずかな微笑は
わたしの内部に切なく装填され
三年 五年 圧力を増し
再びおし返してきた戦争への力と
抵抗を失ってゆく人々にむかい
いま 爆発しそうだ

あなたのくれた
その微笑をまで憎悪しそうな 烈しさで
おお いま
爆発しそうだ!
(微笑)
繰り返し問い直される中で様々な思いが浮かび上がるが、何度も語られるのは、人間の尊厳が奪い去られてしまうということ。
火にのまれゆくのは
四足の
無数の人間。
(炎)
道を埋め
両手をまえに垂れ
のろのろと
ひとしきり
ひとしきり
かつて人間だった
生きものの行列。
(炎の季節)
きみのめくれた皮膚 妻の禿頭 子の斑点 おお生きている原子族
人間ならぬ人間
(景観)
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう
(仮繃帯所にて)
殺された君のからだを
抱き起そうとするものはない
焼けぬけたもんぺの羞恥を蔽ってやるものもない
そこについた苦悶のしるしを拭ってやるものは勿論ない
つつましい生活の中の闘いに
せい一ぱい努めながら
つねに気弱な微笑ばかりに生きて来て
次第にふくれる優しい思いを胸におさえた
いちばん恥じらいやすい年頃の君の
やわらかい尻が天日にさらされ
ひからびた便のよごれを
ときおり通る屍体さがしの人影が
呆ほうけた表情で見てゆくだけ、
(その日はいつか)

最後に引用した詩から、こんな結論を導き出したら笑われてしまうだろうか。原爆は、ひからびた便でよごれた少女の尻をさらすぐらいにしか役に立たないものだと。仰々しく、過大な富を費やし、政治家や軍人がその利用法を宣伝しても、畢竟、便でよごれた少女の尻ような痛ましいほど滑稽な道具に過ぎないと。

2016年8月2日火曜日

『エウセビオス「教会史」』(講談社学術文庫):エウセビオス

エウセビオス「教会史」 (上) (講談社学術文庫)エウセビオス「教会史」 (上) (講談社学術文庫)
秦 剛平

講談社 2010-11-11
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【概要】
書名:エウセビオス「教会史」
著者:エウセビオス
訳者:秦剛平
出版社:講談社(講談社学術文庫)
頁数:上巻:512頁、下巻:533頁
備考:史書

【作者情報】
263年頃生まれ、339年没。古代ギリシア語でキリスト教(正統信仰)に関する著述を行ったギリシア教父の一人。分裂していたローマ帝国を再統一し、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の寵愛を受けるまでに出世したとされ、キリスト教の正統教義を決定する最初の公会議であるニカイア公会議にも出席した。

【感想】
エウセビオスの『教会史』は、イエスの受肉からコンスタンティヌス帝によるキリスト教公認(313年)までのキリスト教の教会と信徒の歴史を描いた歴史書。最古のキリスト教史として知られており、歴史的な価値も高い。とはいえ、「正統キリスト教」による偏った歴史観で書かれているため、客観的な歴史を読み解くのは難しい。

『教会史』では、先ず、教会史のための序章として、キリスト教や福音書の正統性について簡単に語られる。ここで、個人的に面白いと思うのは、キリストが誕生した時期についての弁明と、福音書においてキリストの系図が矛盾することに対する弁明。わざわざ弁明するということは、当時から問題になっていたに違いない。

実際、イエスが人々を救う救世主(キリスト)であるならば、なぜもっと早く現れて、もっと多くの人に救いの手を差し伸べなかったのかという疑問が浮かぶのも当然だと思う。これに対してエウセビオスは、人々がキリストの教えを理解できるまで成熟するのを待っていたと答える。

また、キリストの系図は、新約聖書に含まれる4つの福音書のうちマタイの福音書とルカの福音書にそれぞれ記載されているが、これらに異同があることは有名である。これについては、一方は血のつながりを基準にした自然の系図、もう一方は養子等を考慮にいれた律法上の系図とみなすことで矛盾を解消している。

新約聖書が常に正しいことを前提に解釈していく様子がうかがえて興味深い。

その後は、使徒(キリストの直弟子)たちによって教会が各地にできる様子が描かれ、さらに各教会の指導的人物である監督たち系譜や出来事が時代順に書かれることになる。

個々のエピソードを追っても仕方ないので、ここでは、繰り返し語られるいくつかの主題について注目したい。

一つ目は、反ユダヤ主義。キリストをローマに引き渡して処刑させたのがユダヤ人であることを理由に、エウセビオスはユダヤ人に対してあからさまな敵意を示す。ユダヤ民族は、キリストの死後、ヨセフスの『ユダヤ戦記』に描かれているように、ローマと衝突し、かなり悲惨な状況に追いやられてしまうのだが、エウセビオスはそれを当然の罰として考えている。

キリストにたいする犯罪後の丸四十年もの間、彼ら(ユダヤ人)の破滅を遅らせたすべてに恵み深い摂理の人類愛を示すと思われる〔事実〕を付け加えるのは正当だろう(上巻160,161頁)。

実際にキリストをローマに引き渡した者たちにではなく、その子供の世代のユダヤ民族全体に罰を与えることが恵み深いと説明されるのは、今の感覚からすれば腑に落ちないところではあるが、個人よりも民族の方が本質的であるという認識が潜在的にあるのかもしれない。

翻訳者の秦剛平は解説で本書における反ユダヤ主義を強調している。しかし、第二次ユダヤ戦争とも呼ばれるバル・コクバの乱(132年-135年)でユダヤ人たちが壊滅的な被害を受けると、エウセビオスはそれで満足したのか、それ以降はユダヤ人についてあまり語られなくなる。

二つ目は、異端との戦い。キリスト教の教義は最初から存在したわけではなく、初期のキリスト教徒たちが試行錯誤を重ねて徐々に作り上げてきたものだと解釈するのが妥当だと思われるが、エウセビオスは、異端と正統はアプリオリに分けられているかのように語る。

このため、正統教義がどのように形成されたのかが全く分からなくなってしまっている。これは、キリスト教徒がキリスト教徒としてのアイデンティティをどのように形成したのかということが分からないことを意味するわけで、非常に残念である。

三つ目は、殉教。時代によって程度の差はあれ、ローマ皇帝の神権を認めなかったことや、ローマの神々を否定したため、キリスト教徒はかなり迫害されていたことが確からしい。逮捕され、棄教を迫られ、応じなければ拷問を受けることも度々だった。

この殉教の様子は何度も何度も描かれているが、それらの描き方に基本的な差異はない。拷問に耐え、死んでも棄教しない殉教者が賛美され、棄教した者は貶される。この評価は、当時の状況を鑑みても歪んで見える。イエスは、拷問に耐えられないような弱い者の味方ではなかったか。そもそも「殉教する」という行為を賛美する思想は、イエスが批判した律法主義ではないのか。エウセビオスは、そんなことを考えてもいないようだ。

エウセビオス「教会史」 (下) (講談社学術文庫)エウセビオス「教会史」 (下) (講談社学術文庫)
秦 剛平

講談社 2010-12-10
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2016年5月29日日曜日

『修道師と死』(松籟社):メシャ・セリモヴィッチ

修道師と死 (東欧の想像力)修道師と死 (東欧の想像力)
メシャ セリモヴィッチ Me〓a Selimovic

松籟社 2013-07
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【概要】
書名:修道師と死
著者:メシャ・セリモヴィッチ
訳者:三谷惠子
出版社:松籟社(東欧の想像力)
頁数:458

【作者情報】
ボスニアの小説家。1910年生、1982年歿。

【感想】
『修道師の死』は、東欧の文学作品をオリジナル言語から直接翻訳する<東欧の想像力>の十巻目。現在、十三巻まで出版されている本シリーズの中で最長の作品で、上下二段組みの四百五十頁を超える大作だ。

物語の舞台は、オスマン帝国下のボスニアだが、詳細な場所や時代は明らかにされない。主人公の名前は、アフメド・ヌルディン。本作は、このヌルディンを語り手とする一人称小説である。

ヌルディンは、テキヤと呼ばれるイスラムの修道場で生活をしている修道師。修道師は、イスラム教系の神秘主義スーフィーの修道僧(ダルヴィーシュ)のことで、翻訳者が仏教などの他の宗教との区別を明確にするために作った造語とのことである。

物語は、ヌルディンの弟が理由も不明のまま突然逮捕され、ヌルディンが困り果てているところから唐突に始まる。しかし、その後の展開は非常に緩やかである。判事の妻から、その妻の弟の件で相談を受け、それを利用して判事に取り入ろうかどうか悩むが、結局はそれを諦める。その後も、弟を救うため、色々と行動するのだが、拉致が明かない。

カフカ的な不条理の世界を彷彿とさせなくはないが、それがメインテーマではなく、徐々に明らかとなり、目が離せなくなるのは、ヌルディンの心中に潜む空虚さである。

ヌルディンは、修道師という、それなりの地位と名誉のある立場にいながら、驚くほど主体性がない。修道師という立場が自分の代わりに考えてくれたと、何のためらいもなく言い切ってしまうほどで、弟を何が何でも救うという切迫感もなく、どこか他人事である。

そんなヌルディンの奔走が功を奏すわけもなく、状況は進展せず、それどころか悪化していくばかり。その下降が延々と続くかのようにウネウネと語られていく。その中で、ヌルディンの過去なども少しずつ仄めかされる。

そして、一部の終りであることが起こり、二部になると、ヌルディンにも変化が訪れる。しかし、その変化は良いものではない。

どんよりとした灰色の世界がどこまでも続くような胸苦しい語りが不気味な緊張感を生んでいる。読み応えは十分。いや、十分過ぎて、うんざりするところもあるのだけど、この不気味な緊張感には、独特な魅力があると思う。後半は、物語の速度も上がり、ラストには、カタルシスを得ることができる。

個人的には、判事の妻の弟(物語の途中でヌルディンの友人にもなる)が好人物として描かれており、この窮屈な小説に、時折清々しい風を吹き込んでくるのが忘れがたい。苦痛に満ちたこの世界にも、自由があることを思い出させてくれる。このような存在や描写のある小説は、いつでも素晴らしい。

2016年5月15日日曜日

『吟醸掌篇 vol.1』(けいこう舎):志賀泉、柄澤昌幸、小沢真理子、山脇千史、広瀬心二郎、栗林佐知、他

吟醸掌篇 vol.1吟醸掌篇 vol.1
志賀 泉 山脇 千史 柄澤 昌幸 小沢 真理子 広瀬 心二郎 栗林 佐知 江川 盾雄 空知 たゆたさ たまご猫

けいこう舎 2016-05-09
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【概要】
書名:吟醸掌篇 vol.1
著者:志賀泉、柄澤昌幸、小沢真理子、山脇千史、広瀬心二郎、栗林佐知、他
出版社:けいこう舎
頁数:104

【感想】
今回は、文芸誌『吟醸掌篇 vol.1』の感想です(というより、せんで…ゲフンゲフン)。

出版元のけいこう舎は、小説現代新人賞や太宰治賞を受賞したこともある小説家の栗林佐知さんが事実上お一人で始められた編集工房で、『吟醸掌篇 vol.1』は、そのけいこう舎の最初の出版物とのことです。

一人で文芸誌を作るなんて、気の遠くなるような労力が必要でしょう。執筆者の人選や発注、原稿の校閲だけでなく、全体の構成や装丁なども考えなければなりません。もし、自分が一人で文芸誌を作ることになったらなどと想像すると、それだけで卒倒しそうです。

それでも、そんな労力をかけて『吟醸掌篇 vol.1』は作られました。その理由はけいこう舎のサイトに優しい調子で書かれていますが、実際には、非常に強い思いがあったのだろうと推察します。

『吟醸掌篇 vol.1』には、新人賞などを受賞して小説家デビューを果たしても、中々発表の機会に恵まれない小説家さん達の短篇小説が主に所収されています。これらの短篇小説は、意外にも(といったら無礼千万ですが)、滋味あふれる素晴らしい作品ばかりです。なぜこんなに素晴らしいものをお書きになれるのに、発表の機会が得られないのかと不思議でなりません。

その理由を考えますと、失礼な話ですが、やはり地味だということになるでしょうか。人を驚かす奇想や、血沸き肉躍るような冒険、思わず唸る謎解きなどとは無縁です。従来の小説の方法論を覆そうといった野心にも乏しいのかもしれません。それでも、私は『吟醸掌篇 vol.1』に所収された小説は素晴らしいものばかりだと思います。

もちろん、小説の読み方は千差万別ですから、誰にとっても素晴らしいとは言いません。ですが、少なくとも一部の読者には忘れ難い印象を残すはずです。

例えば、小説の登場人物が自分とは異なる境遇でありながら、その小説がまるで自分について語られていると思うことがありませんか。このような感想は、いささか素朴ではありますが、それを完全に否定するのは、ナボコフのようなインテリの悪い癖です。本書の短篇小説は、このような感想を否定しません。

遠藤周作は、『キリストの誕生』の中でこのように言っています。

「人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである(遠藤周作『キリストの誕生』(新潮文庫:286頁))」

『吟醸掌篇 vol.1』は、この言葉に深い共感を持って頷く人のための本です。徐々に住みづらくなっていくこの社会において、それでも他人と関わりもって、できれば理解したいと思う人のための文芸誌です。

実をいうと、私も栗林佐知さんにお声をかけて頂き、コラムという名の駄文を寄稿する僥倖に恵まれました。非常に光栄なことです。

え、じゃあ、これは宣伝なのかと思われたかもしれません。そう、せん…げふんげふん。いや、まあ、そんなのはどちらでもいいではありませんか。上に書いたことは、(説得力はないかもしれませんが)嘘ではありません。私のコラムは、まあ、破って紙飛行機にして飛ばしてください。よく飛ぶように念じておきましたので、きっと月にさえに届くはずです。

とまあ、そんな冗談はともかく、発行部数は少ないようですので、気になる方は躊躇せずにAmazonに注文しましょう。品切れになったら、手に入れるのは大変ですよ。




2016年4月16日土曜日

『新約聖書外典』(講談社文芸文庫)


【概要】
書名:新約聖書外典
編集者:荒井献
翻訳者:八木誠一、田川建三、大貫隆、他
出版社:講談社(講談社文芸文庫)
頁数:526

【感想】
以下の文章は、感想というより個人的なメモみたいなものです。

『新約聖書外典』はタイトル通り、新約聖書の外典を集めた本。外典とは、ギリシア語で「隠されたもの」の意味があるアポクリファの訳語であり、一般的には、新約聖書として採用されなかった文章のことを指す。対義語は、正典(カノン)であり、当然、新約聖書のこと。

ただし、上記の定義の場合、例えば、このブログの文章も聖書として採用されていないので、外典になってしまい、都合が悪い。このため、もう少し厳しい定義が必要だろう。本書では、新約聖書外典を以下のように定義している。

新約聖書外典とは、正典から排除された、あるいはその中から正典に採用されなかった諸文書であるが、内容的には正典と同一の価値を持つとの要求を掲げ、伝承様式・文学形式上正典に類似するか、あるいはこれを補足する傾向を有する諸文書のことである。(17頁)

このような外典の数は非常に多く、本書に所収されているのは、そのごく一部である。

「ヤコブ原福音書」
原福音書とは、福音書で描かれているイエスの生涯よりも前の出来事を描いた文章のことらしく、ここでは、イエスの母マリアの半生が描かれている。

マリアの誕生秘話、マリアとヨセフとの邂逅、受胎告知、イエスの出産が主なエピソードである。正典では、ヨセフはマリアの夫として登場するが、「ヤコブ原福音書」では、ヨセフはマリアとヨセフは結婚しない(ヨセフがマリアを保護するだけ)など正典との違いもある。

正典にあるような霊妙な譬え話などは見当たらず、物語も比較的単純である。その中では、マリアの処女懐胎を疑い、その後、疑いが晴れるというパターンのエピソードがヨセフの場合も含めて3回も出てくるのが印象的である。当時でも処女懐胎は信じられない現象だったようだ。

「トマスによるイエスの幼時物語」
イエスの子供時代を描いているのだが、ここで描かれているイエスは本当に酷い。少しでも気に入らない奴には呪いをかけて、しかもそれが全て成就するというのだから、神の子というより悪魔の子である。

教師が「最初の文字はΑ(アルファ)で…」と言うと、「お前はΑの本当の意味も知らないくせに!」とか言って突然ブチ切れては呪いをかけたりするなど、キレやすいのにも程がある。

「ペテロ福音書」
福音書とはイエスの生涯を描いた言行録だが、新約聖書だけでも4つあり、それぞれ相違点があるので、どこまでが事実なのかを判断するのは容易ではない。

「ペテロ福音書」には損失が多く、残っているのは、イエスの刑死から復活までの部分。イエスの刑死の原因をユダヤ人に押し付けようとする意図が強く表れていて、少しうんざりする(解説では、強い言葉で非難している)。

「ニコデモ福音書(ピラト行伝)
「ペテロ福音書」と同様なイエスの刑死から復活までの出来事に加え、その後のイエスの冥府めぐりの記述が含まれている。しかし、冥府めぐりの箇所は翻訳されていない。明らかな後付けであり、『新約聖書外典』には相応しくないという編者の判断なのだろうが、できることなら訳して欲しかった。

内容的には、それほど目を見張るものはないが、「ペテロ福音書」のようなイエスの刑死の原因をユダヤ人に押し付けようとする意図があまりなく、安心して読める。

「ヨハネ行伝」
イエスの死後(昇天後)、イエスの直弟子にあたる使徒たちは各地で布教活動を行ったと云われており、その様子は使徒行伝(使徒言行録)として正典にも収められている。「ヨハネ行伝」は使徒の一人であるヨハネの布教活動の様子を描いた使徒行伝系の外典。ちなみに3割程度が欠損しているとのこと。

全体的にグノーシス主義と呼ばれる「異端信仰」の色合いが強く、正典にはない教えやイエスの言動が描かれていて、それ自体が中々面白い。特にイエスが歌いながら踊る場面などは一読の価値があるだろう。

「ペテロ行伝」
ペテロの布教活動を描いた使徒行伝系の外典。主にペトロと魔術師シモンとの対決が描かれている。対決といってもペトロが一方的にキリストや神の名の下にシモンを懲らしめているだけで、水戸黄門のような勧善懲悪ドラマの一種といった感じである。

ペテロは、シモンを懲らしめた後、ある奸計により十字架にかけられることになるのだが、その描写が可笑しくて仕方ない。ペテロは自身の希望に従って頭を下にした格好で十字架にかけられるのだが、その状態のままで、痛がることもなく頭を下にした格好の意味などを冷静に語る様子には唖然とする。ここには、正典におけるキリストの磔刑の凄まじさは皆無である。

「パウロ行伝(パウロとテクラの行伝)
パウロの布教活動を描いたという体だが、実際にはパウロは脇役で、テクラという女性が主役。古代の正統派キリスト教では、女性の地位は不当に低いが、ここでは、テクラが信仰により苦難を乗り越え、布教する側の身分となるという先進的な内容である。力強いテクラに比べて、パウロの方は情けなく、テクラに迫る人に対してそんな人は知らんと他人のふりをして難を逃れる場面には吃驚した。

「アンデレ行伝」
アンデレの布教活動を描いたものだが、欠損が多く、訳出された部分の多くがアンデレによるグノーシス主義的な説教となっている。

「使徒ユダ・トマスの行伝」
ユダ・トマスの布教活動を描いた使徒行伝系の外典。ちなみにユダ・トマスは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダとは別人。

イエスの昇天後、トマスは布教活動のためにインドに行かされることになるのだが、その際、インドに行きたくないと駄々をこねるところが可笑しい。しかし、その後は、真面目な布教活動の様子が長く描かれるので、後半は疲れる。

他の行伝でもそうだが、姦通に関して非常に厳しく、繰り返し非難される。夫婦間の通常の性行為でさえ、姦通として扱われているようだし、そもそも結婚が大罪扱いで、これから結婚しようとする人は必ず止められる。どうしてここまで忌避されるのか理解に苦しむのだが・・・

「セネカとパウロの往復書簡」
ストア派の哲学者セネカと使徒パウロの往復書簡。もちろん、そんなものが存在するわけもなく、明らかな創作である。セネカがパウロを師のように慕っているように描かれており、パウロの偉大さが演出されている。

「パウロの黙示録」
「黙示」とは秘密を顕わにすること。聖典に収められている「ヨハネの黙示録」では、神よって既に決定されている世界の終末に関する秘密が露わになっているが、「パウロの黙示録」では、死後人々が行くことになる天国と地獄に関する秘密が明らかにされている。天国や地獄の様子は興味がそそられるが、「ヨハネの黙示録」ほどのグロテスクで鮮烈なイメージがないのが残念である。

2016年4月4日月曜日

『ローマ皇帝群像』:アエリウス・スパルティアヌス他(京都大学学術出版会)

ローマ皇帝群像〈1〉 (西洋古典叢書)ローマ皇帝群像〈1〉 (西洋古典叢書)
アエリウス スパルティアヌス 南川 高志

京都大学学術出版会 2004-01
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【概要】
書名:ローマ皇帝群像
著者:アエリウス・スパルティアヌス 他
訳者:南川高志、桑山由文、井上文則
出版社:京都大学学術出版会(西洋古典叢書)
頁数:258頁(1巻)、347頁(2巻)、355頁(3巻)、398頁(4巻)
備考:史書

【作者情報】
概要に挙げたアエリウス・スパルティアヌスを含む六人の歴史家によって執筆、編纂されたと伝わっているが、実際にはそれは嘘らしい。記述内容だけからすると、コンスタンティヌス帝(コンスタンティヌス1世)に捧げているので四世紀前半に編纂されたように見えるが、実際には、四世紀中期から五世紀以降まで諸説あるそうで(四世紀後半説が有力)、作者も一人である可能性が高いとのこと。

【感想】
ローマ時代に書かれた歴史書は、数多くあるものの、その多くが帝政前期までのもので、帝政中期から後期の歴史書は少なく、特に邦訳はほとんどない。そんな状況において、京都大学学術出版会(西洋古典叢書)から翻訳出版された、この『ローマ皇帝群像』は貴重である。

『ローマ皇帝群像』は、五賢帝の一人であるハドリアヌス帝(在位:117年-138年)から軍人皇帝時代の最後の皇帝であるヌメリアヌス帝(在位:283-284年)までの皇帝や僭称帝(皇帝を僭称した人)の伝記を集めたもので、邦訳では四巻に分冊されている。四巻を全て新刊で買うと一万円を超えてしまうので、容易に手は出せないかもしれないが、古代ローマに関心のある人にとっては感涙ものである。

ただし、伝記といても、信憑性が低い記述も多く、特に一部の皇帝の伝記についてはほぼ完全にフィクションであったりするなど、扱いはかなり難しい。それでも、本邦訳書では、詳細な訳註により、どの記述がどの程度の信憑性を有しているのかが概ね分かるようになっているので、ストレスはほとんど感じない。

ラテン語の原文や英訳であれば、ここなどでもフリーで読めるが、詳細な訳注はフリーで読める原文や英訳にはない本邦訳書ならではの魅力だろう。

[第一巻]
ローマはアウグストゥス(在位:AD27-14年)により帝政に移行した後、内乱などを経験したものの、それを乗り越え、五人の賢帝が連続して帝位についた五賢帝時代によって最盛期を迎える。第一巻は、五人の賢帝の三番目にあたるハドリアヌス帝の生涯から始まる。

ハドリアヌス帝は、ローマ帝国最盛期の皇帝ということもあり、近現代ではかなり高い評価を得ているようだが、意外にも本書での評価は低く、暴君の一歩手前くらいの酷い言われようをしているところもある。確かに、密偵を使って元老院議員の生活を探らせたりするなど、陰険な面があったようだ。ただ、公衆浴場でのエピソードなどユーモアもあって、個人的には嫌いではない。

ハドリアヌス帝の後を継いだアントニヌス・ピウス帝(在位:138年-161年)の伝記は、短めだが、評価は高く、史実的な信憑性も高いとされているようである。

アントニヌス・ピウス帝の後を継いだのは、五賢帝最後の一人となるマルクス・アントニヌス帝(在位:161-180)。マルクス・アントニヌス帝は、自身の哲学的な思索をまとめた『自省録』を執筆したことでも有名で、哲人皇帝として名高い。本書でも、哲人皇帝の名に相応しい賢帝としての人生が描かれている。ただし、哲人皇帝という名前から予想される隠者のような皇帝とは異なり、対外的な戦争に追われ、在位中は主に戦場で暮らしている。

第一巻には、それ以外にも、アントニヌス帝の共同皇帝であるウェルスの生涯なども収められている。これらの伝記も含め、第一巻の伝記は、信憑性も比較的高く、伝記らしい伝記が多い。

[第二巻]
第二巻は、マルクス・アントニヌス帝の実子であるコンモドゥス帝(在位:180-192年)の生涯から始まる。一般的に五賢帝時代は、各皇帝が優秀な人を養子にして次期皇帝に据えることで、優秀な皇帝を擁立してきたとされているが、それは間違いで、単に皇帝を継げるような実子に恵まれなかっただけである。

マルクス・アントニヌス帝は皇帝を継げる実子に恵まれたが、ローマ市民にとっては最悪だった。コンモドゥス帝は、ネロ帝やドミティアヌス帝と並ぶ暴君になってしまったからだ。

コンモドゥス帝は、幼少の頃から、棍棒で人を殴ったり、大食で淫乱だったりといいところがなく、帝位に就いてからは、父の代から続いていた戦争を終結させた点を除けば、愚帝かつ暴君としてローマ帝国に君臨したといっていいと思う。愚かで野蛮な行動は、わざと面白おかしく書かれたものではないかという疑念も浮かぶが、意外にも伝記としての信憑性は高いとのことである。

コンモドゥス帝は結局暗殺され、ローマ帝国は「五皇帝の年」と呼ばれる内乱期に入る。「五皇帝の年」には、短い治世ながらも正統の皇帝として元老院に承認を得たペルティナクス帝とディディウス・ユリアヌス帝、そしてニゲルやアルビヌスのような僭称帝などが乱立するが、最終的にはセウェルス帝(在位:193-211年)が内乱に終止符を打ち、セウェルス朝を開始する。

「五皇帝の年」の皇帝や僭称帝の伝記は、セウェルス帝のものを除けばかなり短いが、それでも(信憑性はどうであろうとも)伝記として残っているだけでも十分だろう。セウェルス帝は、過失に対しては非常に厳しかったが、基本的には賢明な皇帝として描かれている。

セウェルス帝を継いだのは、その長男のカラカラ帝(在位:197-217年。※在位期間がセウェルス帝と重複しているのは、共同統治時代があるから)。カラカラ帝は、ローマに今も遺跡が残るカラカラ浴場の建設や、帝国内の全ての自由民にローマ市民権を与えたアントニヌス勅令などで有名な皇帝である。

カラカラ浴場の遺跡は数年前のイタリア旅行で観てきたが、かなり巨大な建築物で、ローマは最盛期を過ぎてなお、こんな建築ができたのかと驚くばかりだった。そんなカラカラ浴場に行ったことのある身としては、自然とカラカラ帝に親近感を覚えてしまうのだが、残念なことに、カラカラ帝は共同皇帝でもあった弟のゲダを暗殺するなど傍若無人な暴君である。

ローマ帝国においては、暴君と呼ばれる皇帝は基本的に暗殺されてしまうのだが、カラカラ帝もその例に漏れず、暗殺されてしまう。その後、帝位はカラカラ帝を暗殺したマクリヌスと、その息子のディアドゥメニアヌスに一旦移るものの、直ぐにカラカラ帝の親族であるヘリオガバルス帝(在位:218-222年)を擁立した勢力に敗北を喫する。マクリヌスとディアドゥメニアヌスは正統な皇帝ではあるが、本書では、僭称帝のような扱いを受けている。ちなみに、マクリヌス帝の伝記から、作者の創作が多くなり、信憑性は低くなっていくようである。

ヘリオガバルス帝の伝記は、本書の中でも最も特異なものの一つであり、間違いなく最も面白い伝記の一つでもある。後半は、ヘリオガバルス帝を狂気の皇帝として描くことを目的とした半ばエログロ系のエピソードで占められている。これらのエピソードは、信憑性は全くないものの、ローマ時代の前衛的想像力を知る上で非常に貴重だし、面白い。

狂気の皇帝が人生を全うできるほどローマ皇帝の地位は確固としたものではなく、ヘリオガバルス帝は当然のように暗殺されてしまう。

[第三巻]
ヘリオガバルス帝の後を継いだのは、カラカラ帝の親族アレクサンデル・セウェルス帝(在位:222-235年)である。アレクサンデル・セウェルス帝の伝記は、本書の中でも最も長く、そこで描かれているアレクサンデル・セウェルス帝は理想の皇帝である。しかし、これは実像ではなく、作者の理想像が投影されたものらしい。最も長い伝記にも関わらず、ほぼ創作で埋められているとのことである。ただし、史実を知ることはできなくても、当時の理想の皇帝像を知る上では重要な伝記であろう。

理想の皇帝も、その理想を解さない者にはただ邪魔な存在である。アレクサンデル・セウェルス帝は、美点の一つでもあった厳格さを嫌う者に殺されてしまう。

アレクサンデル・セウェルスの死後、ローマ帝国は軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入する。軍人皇帝時代は、目まぐるしく皇帝が代わり、さらに僭称帝も多く、はっきりいって覚えきれない。

本書でも今までの一人の皇帝に一章を割くというスタイルを止め、二人をまとめて紹介するなど、慌ただしく進んでいく。具体的には、最初の軍人皇帝であるマクシミヌス・トラクス帝(在位:235-238年)や、六皇帝の年と呼ばれる238年に帝位に付いては消されていくゴルディアヌスなどの皇帝の伝記を矢継ぎ早に紹介されていく。そして、その後、残念なことに大きく欠損してしまう(元々書かれていないという説もある)。

再開されるのは、異民族の捕虜になった最初のローマ皇帝という不名誉な形で有名なウァレリアヌス帝(在位:253-260年)の伝記の途中から。異民族の捕虜になった場面などは興味がそそられるのだが、そこも欠損しているので読むことができない。返す返すも残念である。ちなみに、井上文則氏の『軍人皇帝のローマ』(講談社選書メチエ)によれば、ウァレリアヌス帝は混乱したローマを立ち直すための改革を進めた賢帝であるが、たまたま捕虜となってしまったために、評価が不当に低くなっているとのことである。

ウァレリアヌス帝の後を継いだのは、その息子のガッリエヌス帝(在位:253-268年)。ガッリエヌス帝は、本書では、捕虜となった父を助けない最低な皇帝として描かれている。

ガッリエヌス帝の治世下では、ローマ帝国は、ガッリエヌス帝が治める本国と、本国から独立したガリア帝国とパルミラ王国とに事実上分裂する。第三巻の最後には、そのガリア帝国とパルミラ王国の指導者や、他の僭称帝などが「三○人の僭称帝たちの生涯」としてまとめて紹介されている。それぞれ短い伝記だが、超男社会のローマにあってパルミラ王国の「女王」として君臨したゼノビアの伝記なども含まれていて、興味は尽きない。

[第四巻]
第四巻は第三巻と比べると、落ち着きを取り戻している。

ガッリエヌス帝の後を継いだクラウディウス帝(在位:268-270年)は、僅か2年程度の治世でありながら、神君とまで称されているほど評価が高い。内乱で国力が低下したローマに本格的に侵攻してきたゴート族に勝利したことがその主な理由で、本伝記もゴート族との戦いの記述が大半を占める。

クラウディウス帝の後を継いだのは、同じく神君と称されたアウレリアヌス帝(在位:270-275年)である(実際には、クラウディウス帝の弟を暗殺して皇帝に伸し上がる)。ガリア帝国とパルミラ王国を滅ぼし、帝国領を回復したことが何よりの功績。ただし、残忍だったとの記述もあり、神君とはいえ、善帝ではなく、強い皇帝というイメージが正しいと思う。

アウレリアヌス帝も暗殺されてしまうのだが、その後、驚くべきことに帝位が一旦空位となる。以前なら多くの僭称帝が現れ、再び内乱になるところだが、そうならなかったのは、ローマ帝国が落ち着きを取り戻している証拠であろう。

その後、タキトゥス帝(在位:275-276年)が元老院から選出される形で皇帝となる。しかし、在位期間も短く、取り立てて功罪もないので、特に面白味のある伝記ではない。

タキトゥスの死後、タキトゥスの弟であるフロリアヌス帝との争いに勝利したプロブス帝(在位:276-282年)がローマ帝国を掌握する。プロブス帝は、最良の善帝と謳われ、元老院に大きな権力を与えたということになっているが、それは史実ではないらしい。

そして架空の人物や荒唐無稽なエピソードを含む四人の僭称帝の伝記が描かれた後、プロブス帝を暗殺したカルス帝(在位:282-283年)と、その息子のカリヌス帝(在位:283-285年)およびヌメリアヌス帝(在位:283-284年)の伝記で締めくくられる。この伝記の後半は、カリヌス帝を破り、軍人皇帝時代に終止符を打つことになるディオクレティアヌス帝(在位:284-305年)の賛美となっており、ディオクレティアヌス帝の後継者たちへの追従を感じさせる作りとなっている。


ローマ皇帝群像〈2〉 (西洋古典叢書)ローマ皇帝群像〈2〉 (西洋古典叢書)
アエリウス スパルティアヌス 桑山 由文

京都大学学術出版会 2006-06
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ローマ皇帝群像〈3〉 (西洋古典叢書)ローマ皇帝群像〈3〉 (西洋古典叢書)
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ローマ皇帝群像4 (西洋古典叢書)ローマ皇帝群像4 (西洋古典叢書)
アエリウス スパルティアヌス 井上 文則

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軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡 (講談社選書メチエ)軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡 (講談社選書メチエ)
井上文則

講談社 2015-05-10
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2016年2月8日月曜日

『ビリー・バッド』(光文社古典新訳文庫): ハーマン・メルヴィル

ビリー・バッド (光文社古典新訳文庫)ビリー・バッド (光文社古典新訳文庫)
ハーマン メルヴィル Herman Melville

光文社 2012-12-06
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【概要】
書名:ビリー・バッド
著者:ハーマン・メルヴィル
訳者:飯野友幸
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)
頁数:215頁
備考:中篇小説。

【作者概要】
 ハーマン・メルヴィル(18191891)。アメリカ合衆国の小説家。生前はあまり評価されず、日々の生活に追われながら作品を執筆。晩年は息子の自殺など不幸が重なった。

【感想】(ネタバレあり)
メルヴィルの最後の小説で、死後1924年に初出版。

物語の筋は単純。イギリスの軍艦に強制徴用されたビリー・バッドは、無垢で善良な性格のために他の乗組員から愛されるが、先任衛兵長(艦内警察官)のクラガートにだけは嫌われてしまう。クラガートは、「生来の悪」を隠して生きている人物で、小説内では、ビリーとは対照的な役割を担っている。

クラガートはビリーが反乱を企てていると艦長のヴィアに謗る。ヴィアはビリーを呼び出し、弁解をしろと迫るが、その時ビリーは思わずクラガートを殴りつけて殺してしまう。その後、ヴィア主動による軍法裁判が行われ、ビリーに極刑が下される。そして、明朝、他の船員が見守る中、ビリーに対する絞首刑が執行されるのであった。

主な登場人物は、上の要約に挙げたビリー、クラガート、そしてヴィアの3人であるが、彼らの心理についてはほとんど語られていない。語られているのは、彼らの行動を規定するメカニズムに関する事柄。クラガートの主要な特性である「生来の悪」を哲学的に分析する箇所も、一見すると時代背景の説明としか思えないような箇所も、このメカニズムを知る上で必要な断片なのだ。

その断片の組み合わせ方によっては、本書は、宗教的な物語のようにも読めるし、善(ビリー)と悪(クラガート)とは別次元的に存在する法(ヴィア)に関する寓話としても読めるし、また別様の読み方もできると思う。

捉えどころのない小説だが、読み終わってみると、自分がこの小説に捉われていることに気付く。例えば、ふとしたきっかけで、死刑執行前にビリーが「神よ、ヴィア艦長を祝福したまえ!」と叫び、後日談において死の床についたヴィアが「ビリー・バッド、ビリー・バッド」と呟くのは、一体何を意味しているのか、とかそんなことを考えてしまう。

2016年1月28日木曜日

『村のロメオとユリア』(岩波文庫):ゴートフリート・ケラー

村のロメオとユリア (岩波文庫 赤 425-5)村のロメオとユリア (岩波文庫 赤 425-5)
ケラー 草間 平作

岩波書店 1972-05
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【概要】
書名:村のロメオとユリア
著者:ゴートフリート・ケラー(ゴットフリート・ケラー)
訳者:草間平作
出版社:岩波書店(岩波文庫)
頁数:126頁
備考:中篇小説

【作者情報】
 ゴットフリート・ケラー(1819-1890)。スイスの小説家。ドイツ語で執筆。

【感想】(ネタバレあり)
スイスの架空の村「ゼルトウィーラ」を舞台にした連作短編集『ゼルトウィーラの人々』の中の1作品。1856年刊行。

タイトル内の「ロメオ」と「ユリア」をそれぞれ英語読みすると、「ロミオ」と「ジュリエット」。つまり、『村のロメオとユリア』は、シェイクスピアの有名な戯曲『ロミオとジュリエット』の村バージョンとなるだろうか。

比較的裕福な農夫マンツとマルチはゼルトウィーラの村でそれなりに仲良く暮らしていたが、新たに開墾した土地の境界を巡る問題から軋轢が生じてしまう。この軋轢は収まるどころか逆に激しくなり、マンツとマルチは次第に相手を打ちのめすことだけに専心するようになる。その結果、両家とも、田畑を顧みなくなり、濫費を重ね、そして没落していくのだった。

そんな憎しみ合うマンツとマルチの最大の被害者は、マンツの息子サリーと、マルチの娘ヴァヘーレン。二人は、幼馴染で、成長とともに互いに魅かれ合うようになっていた。

両家の争いにおいて先に財産を消尽してしまったマンツ一家は、生活費を場末にある飲み屋の経営で稼ぐために町へと引っ越す。一方、マルチは心労で妻を喪う。

その後、サリーはヴァヘーレンとの偶然の再会を果たすものの、逢瀬の現場を見ていたマルチの頭に怪我を負わせてしまう。その怪我が原因でマルチは狂人になってしまい、精神病院に入院。マルチの家は抵当に入れられ、ヴァヘーレンは奉公に出ることになった。

そして、サリーとヴァヘーレンは、なけなしのお金を持ってヴァヘーレンの奉公先へと向かうのだが、途中で気が変わり心中する。

『ロミオとジュリエット』を下敷きにした設定や物語の筋などに特出しているところはあまりないし、感傷的すぎる嫌いもある。けれども、魅かれる箇所も多く、印象に残る小説だと思う。

例えば、マンツとマルチがつかみ合って喧嘩をする場面。共に喧嘩なんてしたことがないため、憎しみだけが先に立ち、無様に転がり合うだけになるのだが、その時の見ていられないほどの滑稽さと哀しさは、両家の争いの本質を良く表していると思う。

個人的に最も良いと思う場面は、サリーとヴァヘーレンが徒歩で奉公先に向かうところ。先を思えば茫洋とする状況の中で、そのことを気にしないようにしながら、喫茶店のようなところで珈琲を飲んだり、村祭りで踊ったりと、今を楽しもうとするサリーとヴァヘーレン。その先にある悲劇的な結末を予感させつつ、いつまでも二人をそっとしておきたくなる。美しく、そして切ない場面だ。



2016年1月25日月曜日

『フラックスへの反論/ガイウスへの使節』(京都大学学術出版会):フィロン

フラックスへの反論・ガイウスへの使節 (西洋古典叢書)フラックスへの反論・ガイウスへの使節 (西洋古典叢書)
フィロン 秦 剛平

京都大学学術出版会 2000-10
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【概要】
書名:フラックスへの反論/ガイウスへの使節
著者:(アレクサンドリアの)フィロン
訳者:秦 剛平
出版社:京都大学学術出版会(西洋古典叢書)
頁数:285
備考:史書

【作者情報】
紀元前20~30年頃に生まれ、紀元後4045年頃に死去したとされるユダヤ人哲学者。膨大な著作があることでも知られている(邦訳がどの程度あるかは分からないが、軽く調べた感じでは少ない印象)。当時のローマ帝国における第2の都市アレクサンドリアでユダヤ人共同体の指導的地位にあったと考えられている。

【感想】
本書には、「フラックスへの反論」と「ガイウスへの使節」という2つの文章の邦訳が所収されているが、これらがどのような文章かを説明するのは難しい。一般には、古代のポグロム(ユダヤ人に対する迫害)を今に伝える貴重な資料という説明がなされているけれど、それは結果論であって、元々の目的や用途がよく分からないのである。翻訳者の秦氏の解説によれば、読むためのものではなく、読み上げるためのもの、つまり、演説用の原稿としか思えないとのことだが、何のための演説なのかははっきりしない。それゆえ、この文章をどのように評価したらいいのか戸惑ってしまうのだが、結局のところ、古代のポグロムの資料として読まざるを得ないのかもしれない。

[フラックスへの反論]
タイトルからすると、フラックスに対して異議申立てを行う文章のように思えるが、実際はそうではなく、フラックスが行った蛮行とその報いを描きつつ、フラックスにより虐げられたユダヤ人の潔白さを示すもの。ちなみにフラックスは、ローマ帝国における政治家で、ポグロムが発生したときのエジプト総督である。

フィロンは、ユダヤ人に対する迫害の波がエジプトのアレクサンドリアにもやってきたときに、フラックスは、それを治めるどころか焚き付けたとして批判し、その時のユダヤ人の迫害の様子を描いている。ユダヤ人を特定の地域に追いやるなど、ゲットーの萌芽が既に見られるのが印象的。

結局、フラックスは失脚し、流刑地で時のローマ皇帝の命令により殺害される。フラックスの悲惨な末路は因果応報なのだとフィロンは説く。

[ガイウスへの使節]
ガイウスは、第3代ローマ帝国皇帝カリギュラのことで、ポグロムが発生したときのローマ皇帝。ネロと並ぶ暴君として有名。アレクサンドリアでポグロムが発生したとき、アレクサンドリアのユダヤ人共同体ィは、ガイウスに対する陳情のためにローマに使節団を派遣する。フィロンはその一員であった。

「ガイウスへの使節」では、使節団の様子や陳情の内容と、その前後のガイウスの状況や行為などが示されている。当初賢帝と思われていたガイウスが暴君に急変し、それを受け入れることができない民衆の動揺などまで描かれており、フィロンの考察力も味わうことができる。


2016年1月18日月曜日

『カルメン/コロンバ』(講談社文芸文庫):メリメ

カルメン/コロンバ (講談社文芸文庫)カルメン/コロンバ (講談社文芸文庫)
プロスペル メリメ Prosper M´erim´ee

講談社 2000-07
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【概要】
書名:カルメン/コロンバ
著者:プロスペル・メリメ
訳者:平岡 篤頼
出版社:講談社(講談社文芸文庫)
頁数:369頁
備考:中篇小説集(2篇収録)

【作者情報】
プロスペル・メリメ(1803-1870)。フランスの小説家。

【感想】
「カルメン」、「コロンバ」というメリメの代表的な中篇小説を2篇所収している。「カルメン」は、岩波文庫や新潮文庫などでも容易に手に入るので、「コロンバ」を読みたい人向けの本かもしれない。

【カルメン】(ネタバレあり)
1845年発表。作曲家ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)がオペラ化したことでも有名なメリメの代表作。

メリメがスペインで出会ったドン・ホセの身の上話という体裁をとった中篇小説。ジプシーの美女カルメンに激しい恋心を抱いたホセは、軍隊から逃亡し、カルメンのために盗賊に身を落とす。その後、カルメンの夫ガルシアが脱獄してくると、ホセは、同じ盗賊団の仲間としてガルシアと行動を共にするようになるのだが、熱愛するカルメンの夫と相容れるわけもなく、結局ガルシアを決闘で殺してしまう。これで満足がいくと思いきや、ホセは、闘牛士のルカスに気を移したカルメンさえも殺してしまうのだった。

カルメンの美貌と自由を欲する気質は男を暴力的にするようだ。ガルシアは一見すると、ただ凶暴なだけの男で、ホセとは違いカルメンをそれほど愛しているようには見えないが、実際にはガルシアもカルメンに狂わされた男なのだろう。ホセがカルメンを殺すのに使った匕首が元々はガルシアのものだったことは、カルメン殺害がガルシアの願望でもあったことを暗示していると思う。

あと物語とは直接は関係しないのだが、夕暮れ時になると裸になって川で垢を落とす女性たちを、暗闇で見えないのに関わらず男たちが遠くから一生懸命覗こうとしているエピソードと、それに続く、夕暮れ時を知らせる鐘の音をいつもより早く鳴らさせて、明るいうちに川に入る女たちを男たちがニヤケながら見つめるエピソードがいい。冒頭に挿入されるこの楽園的なエピソードは、作中のメリメが感じている旅の高揚感や幸福感を上手く表しているし、読んでいる私もまた少し背徳的な喜びを覚えずにはいられない。

実際に作中のメリメもこのエピソードを当初は非常に気に入っている。しかし、メリメがカルメンと邂逅した後では、メリメ自身も陰鬱となり、このエピソードがメリメを惹きつけることもなくなる。メリメ自身もまた、ホセと同様に、カルメンと出会うことによって失楽したのだ。ホセは、メリメの(そして読者の)一つの可能性なのである。

【コロンバ】
「カルメン」と並ぶメリメの代表的な中篇小説。1841年発表。

大佐とその娘は、観光のためにシチリア島へと向かう途中で、シチリア島出身の男オルソと出会う。オルソの父親はある男の謀略によって殺されており、島の古くからの掟では、そのような場合には、父親の敵を討たなければならない。しかし、オルソは島外の生活が長かったため、そんな野蛮な掟に従う気にはなれなかった。

ところが、シチリア島にずっと住んでいたオルソの妹コロンバは復讐を誓っていた。コロンバは嫌がるオルソを焚き付け、敵との戦いを余儀なくさせるのであった。

大佐の娘とオルソのラブロマンスの要素もあるが、注目すべきは、やはりそのラブロマンスの背後で着々とオルソを戦いへと引き込むコロンバの悪女ぶりだろう。コロンバは、カルメンのような奔放自在さが故に男を惑わすファム・ファタールではなく、自分の目的を果たすためには手段を選ばず、人を不幸にすることを目的としているので、カルメンよりも怖い。

悪女やファム・ファタールのような言葉を使って小説を説明すると、ミソジニー(女嫌い)的な小説に見えてしまうかもしれないが、個人的には、これらの小説は、ミソジニー的というよりマゾヒズム的な小説だと思うのだが、どうだろうか?