2016年5月29日日曜日

『修道師と死』(松籟社):メシャ・セリモヴィッチ

修道師と死 (東欧の想像力)修道師と死 (東欧の想像力)
メシャ セリモヴィッチ Me〓a Selimovic

松籟社 2013-07
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【概要】
書名:修道師と死
著者:メシャ・セリモヴィッチ
訳者:三谷惠子
出版社:松籟社(東欧の想像力)
頁数:458

【作者情報】
ボスニアの小説家。1910年生、1982年歿。

【感想】
『修道師の死』は、東欧の文学作品をオリジナル言語から直接翻訳する<東欧の想像力>の十巻目。現在、十三巻まで出版されている本シリーズの中で最長の作品で、上下二段組みの四百五十頁を超える大作だ。

物語の舞台は、オスマン帝国下のボスニアだが、詳細な場所や時代は明らかにされない。主人公の名前は、アフメド・ヌルディン。本作は、このヌルディンを語り手とする一人称小説である。

ヌルディンは、テキヤと呼ばれるイスラムの修道場で生活をしている修道師。修道師は、イスラム教系の神秘主義スーフィーの修道僧(ダルヴィーシュ)のことで、翻訳者が仏教などの他の宗教との区別を明確にするために作った造語とのことである。

物語は、ヌルディンの弟が理由も不明のまま突然逮捕され、ヌルディンが困り果てているところから唐突に始まる。しかし、その後の展開は非常に緩やかである。判事の妻から、その妻の弟の件で相談を受け、それを利用して判事に取り入ろうかどうか悩むが、結局はそれを諦める。その後も、弟を救うため、色々と行動するのだが、拉致が明かない。

カフカ的な不条理の世界を彷彿とさせなくはないが、それがメインテーマではなく、徐々に明らかとなり、目が離せなくなるのは、ヌルディンの心中に潜む空虚さである。

ヌルディンは、修道師という、それなりの地位と名誉のある立場にいながら、驚くほど主体性がない。修道師という立場が自分の代わりに考えてくれたと、何のためらいもなく言い切ってしまうほどで、弟を何が何でも救うという切迫感もなく、どこか他人事である。

そんなヌルディンの奔走が功を奏すわけもなく、状況は進展せず、それどころか悪化していくばかり。その下降が延々と続くかのようにウネウネと語られていく。その中で、ヌルディンの過去なども少しずつ仄めかされる。

そして、一部の終りであることが起こり、二部になると、ヌルディンにも変化が訪れる。しかし、その変化は良いものではない。

どんよりとした灰色の世界がどこまでも続くような胸苦しい語りが不気味な緊張感を生んでいる。読み応えは十分。いや、十分過ぎて、うんざりするところもあるのだけど、この不気味な緊張感には、独特な魅力があると思う。後半は、物語の速度も上がり、ラストには、カタルシスを得ることができる。

個人的には、判事の妻の弟(物語の途中でヌルディンの友人にもなる)が好人物として描かれており、この窮屈な小説に、時折清々しい風を吹き込んでくるのが忘れがたい。苦痛に満ちたこの世界にも、自由があることを思い出させてくれる。このような存在や描写のある小説は、いつでも素晴らしい。

2016年5月15日日曜日

『吟醸掌篇 vol.1』(けいこう舎):志賀泉、柄澤昌幸、小沢真理子、山脇千史、広瀬心二郎、栗林佐知、他

吟醸掌篇 vol.1吟醸掌篇 vol.1
志賀 泉 山脇 千史 柄澤 昌幸 小沢 真理子 広瀬 心二郎 栗林 佐知 江川 盾雄 空知 たゆたさ たまご猫

けいこう舎 2016-05-09
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【概要】
書名:吟醸掌篇 vol.1
著者:志賀泉、柄澤昌幸、小沢真理子、山脇千史、広瀬心二郎、栗林佐知、他
出版社:けいこう舎
頁数:104

【感想】
今回は、文芸誌『吟醸掌篇 vol.1』の感想です(というより、せんで…ゲフンゲフン)。

出版元のけいこう舎は、小説現代新人賞や太宰治賞を受賞したこともある小説家の栗林佐知さんが事実上お一人で始められた編集工房で、『吟醸掌篇 vol.1』は、そのけいこう舎の最初の出版物とのことです。

一人で文芸誌を作るなんて、気の遠くなるような労力が必要でしょう。執筆者の人選や発注、原稿の校閲だけでなく、全体の構成や装丁なども考えなければなりません。もし、自分が一人で文芸誌を作ることになったらなどと想像すると、それだけで卒倒しそうです。

それでも、そんな労力をかけて『吟醸掌篇 vol.1』は作られました。その理由はけいこう舎のサイトに優しい調子で書かれていますが、実際には、非常に強い思いがあったのだろうと推察します。

『吟醸掌篇 vol.1』には、新人賞などを受賞して小説家デビューを果たしても、中々発表の機会に恵まれない小説家さん達の短篇小説が主に所収されています。これらの短篇小説は、意外にも(といったら無礼千万ですが)、滋味あふれる素晴らしい作品ばかりです。なぜこんなに素晴らしいものをお書きになれるのに、発表の機会が得られないのかと不思議でなりません。

その理由を考えますと、失礼な話ですが、やはり地味だということになるでしょうか。人を驚かす奇想や、血沸き肉躍るような冒険、思わず唸る謎解きなどとは無縁です。従来の小説の方法論を覆そうといった野心にも乏しいのかもしれません。それでも、私は『吟醸掌篇 vol.1』に所収された小説は素晴らしいものばかりだと思います。

もちろん、小説の読み方は千差万別ですから、誰にとっても素晴らしいとは言いません。ですが、少なくとも一部の読者には忘れ難い印象を残すはずです。

例えば、小説の登場人物が自分とは異なる境遇でありながら、その小説がまるで自分について語られていると思うことがありませんか。このような感想は、いささか素朴ではありますが、それを完全に否定するのは、ナボコフのようなインテリの悪い癖です。本書の短篇小説は、このような感想を否定しません。

遠藤周作は、『キリストの誕生』の中でこのように言っています。

「人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである(遠藤周作『キリストの誕生』(新潮文庫:286頁))」

『吟醸掌篇 vol.1』は、この言葉に深い共感を持って頷く人のための本です。徐々に住みづらくなっていくこの社会において、それでも他人と関わりもって、できれば理解したいと思う人のための文芸誌です。

実をいうと、私も栗林佐知さんにお声をかけて頂き、コラムという名の駄文を寄稿する僥倖に恵まれました。非常に光栄なことです。

え、じゃあ、これは宣伝なのかと思われたかもしれません。そう、せん…げふんげふん。いや、まあ、そんなのはどちらでもいいではありませんか。上に書いたことは、(説得力はないかもしれませんが)嘘ではありません。私のコラムは、まあ、破って紙飛行機にして飛ばしてください。よく飛ぶように念じておきましたので、きっと月にさえに届くはずです。

とまあ、そんな冗談はともかく、発行部数は少ないようですので、気になる方は躊躇せずにAmazonに注文しましょう。品切れになったら、手に入れるのは大変ですよ。