2015年8月28日金曜日

『動きの悪魔』(国書刊行会):ステファン・グラビンスキ

動きの悪魔動きの悪魔
ステファン グラビンスキ Stefan Grabi´nski

国書刊行会 2015-07-27
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【概要】
書名:動きの悪魔
著者:ステファン・グラビンスキ
訳者:芝田文乃
出版社:国書刊行会
頁数:324
備考:短篇小説集

【作者情報】
1887年にオーストリア=ハンガリー帝国領のガリツィア・ロドメリア王国(現在のポーランド+ウクライナ周辺)で生まれ、1936年に死去。ポーランド文学史上ほぼ唯一の恐怖小説ジャンルの古典的作家で、「ポーランドのポー」「ポーランドのラヴクラフト」などと呼ばれている。

【感想】(ネタバレあり)
ジャンルで言えば、幻想怪奇小説系の短篇集だが、その全てに鉄道が絡んでくるところが目新しい。それでいて単調な構成とはならず、サイコホラー的な作品から、SF風味を効かせた物語や、ユーモアを感じさせるものまで幅広いタイプの小説が楽しめる。

本書の作品を通して、目に付くのは、鉄道と人間の関係。鉄道は、当然ながら人間が作り、そして運営、管理していくものであるが、本書の作品では、その立場が逆転していることが多い。

例えば、普段は内気で消極的だが列車に乗っているときだけ性格が変わったように積極的になる男の顛末を描いた「車室にて」では、一見すると、男がファム・ファタール的な女に誑かされているのだが、列車を下りた後の男の我に返ったような行動から推察するに、男を操っていたのは女でなく列車の方だろう。「汚れ男」では、鉄道を運行は、占星術における天体運行のように、人の運命を支配する存在にまで昇華されているように思えるし、本作に現れる謎の汚れ男は、予め決められた鉄道の運行を守る守護者なのかもしれない。

本書の各作品では、鉄道は多かれ少なかれ人々の運命や行動に影響を与えるが、影響を与え方には、大きく分けて二種類あると思う。一つは、「奇妙な駅(未来の幻想)」や「待避線」のように鉄道とは別の大いなる存在が鉄道を使って人々に影響を与える場合、もう一つは、上述の「汚れ男」や、「偽りの警報」、「放浪列車(鉄道の伝説)」のように鉄道そのものが運命を司っている場合だ。

個人的に面白いと思うのは、後者の方だが、それは完全に好みの問題だと思う。好みと言えば、不幸になる主人公が多い中で、愛情を注いで整備した鉄道に恩返しされる「音無しの空間(鉄道のバラッド)」と、ユーモレスク(ユーモア小説)といいつつラストがあまりに切ない「永遠の乗客( ユーモレスク )」が特によかった。

鉄道と人間の関係でいえば、最後に所収された「トンネルのもぐらの寓話」は異色。ここでは、鉄道は、もはや人間の運命を左右する存在ではなく、物語の背景に甘んじている。けれども、本作の最後で主人公のフロレクが鉄道会社の人間から逃れるとき、読んでいる私自身が私を支配する鉄道から逃れて自由になった気がした。言いかえれば、本書の魔力から解放されたのだ。そういう意味で、最後の作品として、これ以外にないくらい相応しいと思う。



2015年8月17日月曜日

『氷』(ちくま文庫):アンナ・カヴァン

氷 (ちくま文庫)氷 (ちくま文庫)
アンナ カヴァン Anna Kavan

筑摩書房 2015-03-10
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【概要】
書名:氷
著者:アンナ・カヴァン
訳者:山田和子
出版社:筑摩書房(ちくま文庫)
頁数:274頁
備考:長編小説

【作者情報】
1901年生まれ、1968年歿。ヘレン・ファーガソンの筆名で何篇か小説を発表した後、1940年の『アサイラム・ピース』からアンナ・カヴァンを名乗る。ヘロインの常習として知られており、心臓発作で亡くなったときも、すぐ傍にヘロイン用の注射器が置かれていたらしい。

【感想】(ネタバレあり)
人は不調和の下で生きている。理想の自分と実存する自分が一致することはなく、社会から強制されるルールを全て是認できるわけもない。自分が望む自由な生と、自身の能力不足や社会からの強制によって規定される実際の生との不調和に葛藤したことのない人間などいるのだろうか。

この不調和において自由な生は常に妥協を強いられる。努力や運などによって、実際の生を自由な生の方に近づけることはある程度可能かもしれないが、同じ地平にまで引き上げることはできないからだ。この妥協を要領よくこなす人間は「大人」と称賛され、そうでない人間は「子供」と蔑まれることだろう。なぜ「普通」になれないのかと責められるだろう。

アンナ・カヴァンの『氷』は、氷によって人類の生息地が奪われつつある世界で、主人公の男が一人の少女を追い求める物語である。

母からの虐待により隷属的な性格となった少女の謎の逃避行と、その少女を追いかけ保護しようとする主人公の男、隷属的な性格を利用して少女を娼婦のように扱う暴力的な長官というのが本作の最も表層的な図式である。しかし、『氷』はこのような単純な物語ではない。本作は幾層にも折り重なった欺瞞で構成されている。

冒頭、車中で男が幻視した少女の姿は、性的に未熟な裸体のため、まさに少女というべき存在ではあるが、実際には、少女は二十一歳で、既に結婚して夫と暮らしている。この少女とは言えない年齢の既婚女性を「少女」と呼ぶのは、主人公の男である。これは――実際の少女がどうであれ(夫が告白するように普通の行動がとれない「子供」であるかもしれないが)――少女が保護すべき弱い存在であることを望む男の心理を表している。少女が弱い存在であれば、男は、弱い存在を保護する自分というアイデンティティを確立できるからだ。

『私にとって、現実は常にその実体を測り知ることのできない存在だった(19頁)』


男は、現実を受け入れるための基礎として、弱者を保護する自分というアイデンティティを確立している。端的に言えば、男はマッチョである。

しかし、男の少女への執着心は非常に強く、とてもマチズモだけでは説明しきれない。というより、マチズモは、男が自己正当化のために作り出した仮面にすぎない。男がマチズモの下に隠すもう一つの顔は、サディストの顔である。一見すると、暴力的な存在はもう一人の重要人物である長官の方にみえるが、実際には、男がいくども見る少女に対する妄想的な幻では、少女に対する残虐な行為が何度も行われる。男は、自身の暴力性を自覚しているのだが、決して容認してはいない。

『苦悶する少女を見ていることで、説明のしようのない歓びを感じている。この冷酷さは、私自身、是認できないものだが、それでも、それは厳然としてあった(21頁)』

男と長官は互いに敵対しているように見えるが、それはうわべだけのことであり、男は何度も長官に対して親近感や一体感を覚える。長官は、少女を「保護」するが、「保護」することを美化してはいない。男の長官に対する感情は、欲望の解放に対する憧憬である。長官は、マチズモの仮面を脱ぎ捨てた男の理想なのだ。

しかし、男の少女に対する狂気にも似た執着は昔からあったわけではない。

『あの少女に会いにいくという抑えがたい思いは自分でも理解できなかった。異国にいる間中、彼女のことが私の意識から離れることはひと時たりとなかったが、かと言って、帰国の理由が彼女だというわけではなかった。(中略)だが、この国に着いた途端、彼女は強迫観念となり、私は彼女のことしか考えられなくなった(18-19頁)』


男が少女の住む国に来る前に何をやっていたのかは、明らかにされていないのだが、熱帯に棲むキツネザルの一種であるインドリに強い関心があったことが繰り返し語られる。男が一旦少女を諦めたとき、今後はインドリの研究に身を捧げようと思うくらい、インドリは男には重要な存在である。つまり、男にとってインドリは、少女と天秤に掛けられる唯一の存在なのだ。

インドリは、本作の中では、人生における平和の象徴として語られ、穏和、知的、神秘的、陽気など、肯定的なものを体現する。男は、インドリについて思いを馳せるとき、暴力的な自分から解放されている。しかし、平和の象徴であるインドリも少女には、気も狂ってしまうほど嫌な存在として描かれるのだ。

一方、本作のタイトルにもなっている世界を覆い尽くさんとする氷は、暴力や残忍さなど否定的なものを体現している。しかし、氷は不思議なほど少女に影響を与えない。それどころか、氷が少女を象徴していると思える箇所も少なくない。

まとめると、本作の構成は以下のようになっていると思う。

男は、少女の国に帰国する前、インドリの住む温暖な国で平和に暮らしていたが、サディストとしての性的欲求が意識から離れたことはなかった。それが氷に支配されつつある少女の国に帰国したとき、サディストとしての性的欲求が膨れ上がり、少女に執着するようになる。インドリに象徴される平和な顔は少女を保護するというマチズモの仮面として受け継がれ、氷に象徴される暴力的な顔を覆い隠している。

男は、少女を保護するが、少女が世界を受け入れているかのような言動を取ると、今度は少女を見捨て、インドリを選ぶ。しかし、世界が氷(=暴力的な生)で覆われようとしている今、インドリ(=平和な生)を選ぶことはできない。もはやインドリの世界は、空想の中だけしか存在しない。

結局、男は少女を再び追いかけ、少女と再会を果たす。そして少女からこのように告白される。

『あなたに会う時はいつだってわかっている。あなたが私にひどいことをするってことが……すぐにでなくとも、一時間か二時間たてば、でなければ翌日には……必ずそう……あなたはいつだってそう………(250-251頁)』
『本当よ、本当だってことだけは確かよ、あなたが信じようと、信じまいと! なぜだかわからない……私にはいつだって、あなたがあんなに恐ろしかったのに……わかっているのは、ただ、私がずっと待っていたということだけ……ずっと、あなたが帰ってくるかどうか考えつづけていた(251頁)』


少女とて暴力を肯定しているわけではないが、欺瞞に満ちた存在しない平和よりもはるかにましである。

男は、少女の告白を受けて、自身の暴力性をようやく自覚し、恥じ入る。そして、少女に対して二度と暴力を振るわないことを誓う。この場面は、清々しく、感動的である(感情や情熱を伴う偽らざる赤裸々な告白が人の心を動かす瞬間は、いつでも感動的なのだ)。

最後、男は少女と二人で車に乗り、全速力で氷から逃げていく。少女はほほえみ、男に身を寄せる。残り時間は少ないが、二人は幸福である。

けれども、私には二人を祝福しながら見送ることができない。本作の最後の文章はこうだ。

『ポケットの拳銃の重さが心強い安心感を与えてくれる(257頁)』


なぜ拳銃の重さが安心感を与えるのか。それは、暴力をいつでも振ることができるという安心感ではないだろうか。確か少女は言っていたはずだ、『すぐにでなくとも、一時間か二時間たてば、でなければ翌日には……必ずそう……あなたはいつだってそう』と。

2015年8月14日金曜日

『ペルシャの鏡』(工作舎):トーマス・パヴェル


ペルシャの鏡 (プラネタリー・クラシクス)ペルシャの鏡 (プラネタリー・クラシクス)
トーマス パヴェル Thomas Pavel

工作舎 1993-03
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【概要】
書名:ペルシャの鏡
著者:トーマス・パヴェル
訳者:江口修
出版社:工作舎(プラネタリー・クラシクス)
頁数:163頁
備考:連作短編小説集

【作者情報】
1941年のルーマニアに生まれ、その後、カナダに移住。

【感想】
作家や作品の雰囲気を別の作家の名前を使って譬えるのは便利ではあるけれど、その一方で、その作家や作品を型にはめて解釈することにもなってしまう。そのため、このような表現はなるべく避けるべきだとは思うのだが、ある種の作品に出会ったとき、避けがたい魅力を放つ表現が二つある。一つは「カフカ的」、もう一つは「ボルヘス風」。

トーマス・パヴェルの『ペルシャの鏡』は、いかにもボルヘス風な小説である。つまり、形而上学的な晦渋さと、探偵小説的な通俗性とが融合した遊戯的な小説ということだ。

『ペルシャの鏡』は、ライプニッツの「可能世界」をテーマにした五篇の連作短篇小説で構成され、各短篇では、ルイという学生が様々な「可能世界」を垣間見る。

最初の四篇はルイが読んだ書物について語られ、最後の一篇はルイが書いた未完の小説について語られる。ルイが読み書きした書物や小説は全て架空のものであり、プラトンの『饗宴』のパロディや、スーダンを舞台にした英雄叙事詩風な韻文悲劇などその内容は多彩だが、全て結末が固定されておらず、様々な解釈が可能で、その様々な解釈のそれぞれが「可能世界」を表すという構成だ。そして、架空の本がまた「可能世界」についての物語という入れ子構造を持っている。

ライプニッツの「可能世界」の考え方によれば、この現実世界は、様々な可能世界のうち神が選び給うた最善の世界である。しかし、本作における「現実世界」は、「最善の世界」という条件が外され、対等な「可能世界」の一つでしかない。

この重要な変更が本作を「哲学的な物語」ではなく「小説」にしていると思う。つまり、「可能世界」という形而上学的な概念を学術的に吟味しているのではなく、それを遊戯的に扱っているのだ。そして、この遊戯性が本書を魅力的なものにしている。