2016年4月16日土曜日

『新約聖書外典』(講談社文芸文庫)


【概要】
書名:新約聖書外典
編集者:荒井献
翻訳者:八木誠一、田川建三、大貫隆、他
出版社:講談社(講談社文芸文庫)
頁数:526

【感想】
以下の文章は、感想というより個人的なメモみたいなものです。

『新約聖書外典』はタイトル通り、新約聖書の外典を集めた本。外典とは、ギリシア語で「隠されたもの」の意味があるアポクリファの訳語であり、一般的には、新約聖書として採用されなかった文章のことを指す。対義語は、正典(カノン)であり、当然、新約聖書のこと。

ただし、上記の定義の場合、例えば、このブログの文章も聖書として採用されていないので、外典になってしまい、都合が悪い。このため、もう少し厳しい定義が必要だろう。本書では、新約聖書外典を以下のように定義している。

新約聖書外典とは、正典から排除された、あるいはその中から正典に採用されなかった諸文書であるが、内容的には正典と同一の価値を持つとの要求を掲げ、伝承様式・文学形式上正典に類似するか、あるいはこれを補足する傾向を有する諸文書のことである。(17頁)

このような外典の数は非常に多く、本書に所収されているのは、そのごく一部である。

「ヤコブ原福音書」
原福音書とは、福音書で描かれているイエスの生涯よりも前の出来事を描いた文章のことらしく、ここでは、イエスの母マリアの半生が描かれている。

マリアの誕生秘話、マリアとヨセフとの邂逅、受胎告知、イエスの出産が主なエピソードである。正典では、ヨセフはマリアの夫として登場するが、「ヤコブ原福音書」では、ヨセフはマリアとヨセフは結婚しない(ヨセフがマリアを保護するだけ)など正典との違いもある。

正典にあるような霊妙な譬え話などは見当たらず、物語も比較的単純である。その中では、マリアの処女懐胎を疑い、その後、疑いが晴れるというパターンのエピソードがヨセフの場合も含めて3回も出てくるのが印象的である。当時でも処女懐胎は信じられない現象だったようだ。

「トマスによるイエスの幼時物語」
イエスの子供時代を描いているのだが、ここで描かれているイエスは本当に酷い。少しでも気に入らない奴には呪いをかけて、しかもそれが全て成就するというのだから、神の子というより悪魔の子である。

教師が「最初の文字はΑ(アルファ)で…」と言うと、「お前はΑの本当の意味も知らないくせに!」とか言って突然ブチ切れては呪いをかけたりするなど、キレやすいのにも程がある。

「ペテロ福音書」
福音書とはイエスの生涯を描いた言行録だが、新約聖書だけでも4つあり、それぞれ相違点があるので、どこまでが事実なのかを判断するのは容易ではない。

「ペテロ福音書」には損失が多く、残っているのは、イエスの刑死から復活までの部分。イエスの刑死の原因をユダヤ人に押し付けようとする意図が強く表れていて、少しうんざりする(解説では、強い言葉で非難している)。

「ニコデモ福音書(ピラト行伝)
「ペテロ福音書」と同様なイエスの刑死から復活までの出来事に加え、その後のイエスの冥府めぐりの記述が含まれている。しかし、冥府めぐりの箇所は翻訳されていない。明らかな後付けであり、『新約聖書外典』には相応しくないという編者の判断なのだろうが、できることなら訳して欲しかった。

内容的には、それほど目を見張るものはないが、「ペテロ福音書」のようなイエスの刑死の原因をユダヤ人に押し付けようとする意図があまりなく、安心して読める。

「ヨハネ行伝」
イエスの死後(昇天後)、イエスの直弟子にあたる使徒たちは各地で布教活動を行ったと云われており、その様子は使徒行伝(使徒言行録)として正典にも収められている。「ヨハネ行伝」は使徒の一人であるヨハネの布教活動の様子を描いた使徒行伝系の外典。ちなみに3割程度が欠損しているとのこと。

全体的にグノーシス主義と呼ばれる「異端信仰」の色合いが強く、正典にはない教えやイエスの言動が描かれていて、それ自体が中々面白い。特にイエスが歌いながら踊る場面などは一読の価値があるだろう。

「ペテロ行伝」
ペテロの布教活動を描いた使徒行伝系の外典。主にペトロと魔術師シモンとの対決が描かれている。対決といってもペトロが一方的にキリストや神の名の下にシモンを懲らしめているだけで、水戸黄門のような勧善懲悪ドラマの一種といった感じである。

ペテロは、シモンを懲らしめた後、ある奸計により十字架にかけられることになるのだが、その描写が可笑しくて仕方ない。ペテロは自身の希望に従って頭を下にした格好で十字架にかけられるのだが、その状態のままで、痛がることもなく頭を下にした格好の意味などを冷静に語る様子には唖然とする。ここには、正典におけるキリストの磔刑の凄まじさは皆無である。

「パウロ行伝(パウロとテクラの行伝)
パウロの布教活動を描いたという体だが、実際にはパウロは脇役で、テクラという女性が主役。古代の正統派キリスト教では、女性の地位は不当に低いが、ここでは、テクラが信仰により苦難を乗り越え、布教する側の身分となるという先進的な内容である。力強いテクラに比べて、パウロの方は情けなく、テクラに迫る人に対してそんな人は知らんと他人のふりをして難を逃れる場面には吃驚した。

「アンデレ行伝」
アンデレの布教活動を描いたものだが、欠損が多く、訳出された部分の多くがアンデレによるグノーシス主義的な説教となっている。

「使徒ユダ・トマスの行伝」
ユダ・トマスの布教活動を描いた使徒行伝系の外典。ちなみにユダ・トマスは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダとは別人。

イエスの昇天後、トマスは布教活動のためにインドに行かされることになるのだが、その際、インドに行きたくないと駄々をこねるところが可笑しい。しかし、その後は、真面目な布教活動の様子が長く描かれるので、後半は疲れる。

他の行伝でもそうだが、姦通に関して非常に厳しく、繰り返し非難される。夫婦間の通常の性行為でさえ、姦通として扱われているようだし、そもそも結婚が大罪扱いで、これから結婚しようとする人は必ず止められる。どうしてここまで忌避されるのか理解に苦しむのだが・・・

「セネカとパウロの往復書簡」
ストア派の哲学者セネカと使徒パウロの往復書簡。もちろん、そんなものが存在するわけもなく、明らかな創作である。セネカがパウロを師のように慕っているように描かれており、パウロの偉大さが演出されている。

「パウロの黙示録」
「黙示」とは秘密を顕わにすること。聖典に収められている「ヨハネの黙示録」では、神よって既に決定されている世界の終末に関する秘密が露わになっているが、「パウロの黙示録」では、死後人々が行くことになる天国と地獄に関する秘密が明らかにされている。天国や地獄の様子は興味がそそられるが、「ヨハネの黙示録」ほどのグロテスクで鮮烈なイメージがないのが残念である。

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